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Eddie Kramer インタビュー (1/3)


中央がEddie Kramer。そしてHangfaceのメンバーとトシ・カサイ(後方左)


ジミヘン、ストーンズ、ツェッペリン、KISS、ピーターフランプトンなどのアルバムのエンジニア、プロデューサーを数々とこなしてきたEddie Kramer(エディークレイマー)のインタビューです。 日本人エンジニア、トシ・カサイさんの紹介です。また現在彼が一押しでプロデュースしているノルウエー出身のロックバンド、Hangfaceのインタビューも一緒に行いました。

Toshi Kasai氏との合同インタビューです 。(11/2004)
Toshi Kasai氏ご自身のインタビューはこちらです。

ロンドン、ニューヨークでの仕事とジミ・ヘンドリックスについて 

Pci: あなたの事を既に知っている読者の方は多いと思いますが、知らない方のために簡単にあなたの経歴を復習したいと思います。もし何か違うようでしたらご指摘ください。1960年代には、あなたはオリンピック・サウンド・スタジオに在籍していたんですよね?

Eddie: オリンピックは1966年からですがこの世界に入ったのは1961年です。

Pci: 初めてのスタジオはオリンピック・サウンド・スタジオだったんですか?

Eddie: いいえ。初めて入ったスタジオはロンドンのAdvision(アドビジョンスタジオ)でした。

Pci: どうしてこの業界に入られたのでしょう?

Eddie: 広告代理店で働いていたんですが、自分は音楽と機械が好きだったのでレコーディングスタジオで働きたいなと思ったんです。そこでTV Year Bookというのを開いて、その上にペンを立てて目をつぶったままペンを放し、そのペンが指したスタジオに、「あなたのところで仕事がしたい!」と手紙を書いたんですよ。その中のアドビジョンというスタジオでのインタビューがうまくいったんですが、それが始まりです。そして、AdvisionからPye Studioに移りました。とてもいいスタジオでした。KinksやThe UndertakersやSearchersなどいろいろやりました。その後63年から64年は自分でスタジオを経営していました。KPS Sound Studiosという小さいデモスタジオでした。

Pci: それもロンドンですか?

Eddie: 全部ロンドンです。私は南アフリカ出身でロンドンには1960年に来たんです。私の母はイギリス人だったので、その後イギリス国民になりました。そして64年には自分のスタジオを持って、65年にはRegent Soundで短期間なんですが働き始めました。彼らのスタジオを作るのを手伝ったんですよ。66年にはオリンピックからの誘いが来ました。今オリンピックがあるボンに移ったのがあの頃でしたから、私があそこで働いていたのは66年から68年の3年間ですね。私にとって67年はJimi HendrixやTrafficやSmall Facesなど
沢山の仕事をした大事な年でした。

Pci: その後にRecord Plant Studiosに移ったんですよね。

Eddie: Record Plantからの誘いが来たのは1968年です。なぜかと言うとJimiがもうアメリカに戻りたがっていて、Record Plantで彼の仕事を殆どやっていた私に、Jimiの新しいエンジニアにならないかと話が来たんです。Record Plantでは彼のElectric Ladylandなどいろいろレコーディングしました。その後一年は独立してやっていました。

Pci: Electric Lady Studio設立までですよね?

Eddie: そう、その時はElectric Ladylandの建設を計画していた時です。JimiがGenerationと言うナイトクラブを買って彼はそこでよくジャムをしていました。その場所をとても気に入ったJimiはスタジオを作りたいと考え始め、ナイトクラブを下見に来た私がそれを手助けすることになったのです。「こんなに素晴らしい場所をナイトクラブにしておくなんてもったいない!」とすぐ言いましたね。「すごいスタジオを作ろう、世界一のスタジオを!」って、みんなが乗り気になりそうすることになったんです。それが始まりですね。1970年でした。1970年の5月に公式ではないのですがオープンし、5月から8月まで4ヶ月間JimiとElectric Ladylandで仕事をしていました。

Pci: 彼は9月に亡くなったんですよね?

Eddie: 「Cry of Love」をその4ヶ月間にレコーディングした後、彼はヨーロッパツアーへ出たんですよ。その間の9月17日に亡くなりました。正確に言うと、9月17日の夜中でもう18日になっていました。彼が逝ってしまった後、残された私達はとにかく彼の仕事を終わらせなければならなかった。つらかったですね。

Pci: それは大変だったでしょうね。

Eddie: かなり大変でした。せめてもの救いは、彼が沢山のミュージックをレコーディングしていて、みんなにとって素晴らしい遺産と歴史を残してくれたことです。今日もこの後に彼の映画の仕事の打ち合わせがあるんです。

Pci: 彼の映画ができるんですね?

Eddie: はい。彼の資料館にはまだ沢山素晴らしいものがあるんですよ。映画は来年できる予定ですが、今まで私が見てきたJimi Hendrixのパフォーマンスの映像の中でも一番の良い物になると思います。今までとはレベルが違います。レコーディングもパフォーマンスも非常に素晴らしいです。

Pci: Jimiはどういう人だったんですか?

Eddie: その質問はよく聞かれるんですが、一番良い答えは、彼はとても音楽に集中していて、音楽一筋だったということ。ユニークな人なんですが、仕事となるとものすごい集中力がありました。レコーディングする時間が限られていると分かっていたら、完璧なまでの集中力で曲を作りあげました。それからいつも聞かれる質問は、どれくらいドラッグをやっていたかということなんですが、私が知る限りは本当に最小限でしたよ。リラックスするのに若干使ってましたが、仕事熱心だったし仕事に支障があったことは絶対にありませんでした。彼はとてもナイスガイなので、私が悪者になってスタジオから人を追い出したりなどしなければならなかったこともしょっちゅうありましたね。とても優しい性格で礼儀正しい人でした。こんなことを覚えています。スタジオがオープンしたばかりの時、彼が7時のセッションに来たんですが、その前のセッションが長引いていました。けれども彼は誰の邪魔もせず辛抱強く後ろの方で何も言わずに立って待っていてくれました。そこに女の人が立っていれば、親切に椅子を持ってきたりしていましたね。

Pci: そうなんですか。

Eddie: このElectric Ladylandは彼の子供みたいなもので、彼のために作られたものです。彼が望んだデザインと空間を実現しました。4つの白い壁は照明によって色が変えられるようになっていて、Jimiが「今晩は紫がいい」って言えば紫になったし、「緑がいい」って言えば緑になりました。彼にとってスタジオは素晴らしい環境で安全な場所であり、今までに作られたスタジオとはかなり違った前代未聞のスタジオでした。技術的にも今までの型を破ったものでしたね。コンソールは24トラックでその頃誰も持っていませんでした。

Pci: 機材のセットアップはあなたとJimiでやったんですか?

Eddie: いいえ。Jimiの技術面に関してのかかわりは限られていました。彼のスタジオのデザインに関してのインプットは、丸い窓があそこにあるといいんじゃないかというようなことだけでした。最終的にあそこは彼の家でもあり、彼にとってとても心地良い場所になったと思います。創作場でもあったし、ああいう場所を作れたことをとても誇りに思っていました。

Pci: 1970年にスタジオが成功してさらにあなたはRemarkable Productionでも仕事をされていたんですよね?

Eddie: 自分のプロダクション会社を1971年ぐらいに始めて、Voice of the HarlemやCarly Simonの初アルバムなどの仕事をしていました。エンジニアからプロダクションの仕事に移り、自分の会社も作りました。

Pci: そこでKISSやLed Zeppelinなどと仕事をされたんですよね?

Eddie: 73年にKISSのGeneとPaulのバンド、Wicked LesterのマネージャーのRon Johnsonから電話が来たんですよ。Wicked Lesterはビートルズのようなサウンドのバンドにしようというお粗末なトライだったんですが、あまり良くなかったんですよね。レコードはそのままトイレに流された感じでした。そこである日Ronから私に電話があって「デモをやらないか?彼らはロックンロール
系をやりたいんだけど俺の得意な分野じゃないんだ」と言ったので、「いいよ」ってことになって、それからスタジオに入ってハーフインチの4トラックデモを作りました。最近までそのデモテープを持っていたんだけどみんな売ってしまいました。でかいオークションをやり地下の倉庫に残っていた2,000個ほどの物を売りました。これらのテープが売れていくのを見るのはとても面白かったですね。彼らのデモは6曲がベースだったんですが、それで彼らのレコード契約を取ったものです。私の元を離れて他のプロデューサーと初めの2、3枚のレコードを作ったんですが、その後カリフォルニアのCasablanca Recordsから電話があって「KISSのライブレコードを手がけてくれないか?」と聞かれました。数分考えさせてくれと言いました。ちょうど同じ時にBostonのTom Scholzからかれらのファーストアルバムのミックスを頼まれていました。 それから電話を置いて自分の机の上を見ながらどの仕事を選ぶか決めなければなりませんでした。KISSか、テープを送ってくれたBostonかどちらかだったんですが、Tomのテープは聴いてみて既に完成品に近かったので、Tomに電話をして「このテープ、もう私が足せるものはあまりないと思う。このまま出してもいいと思うよ」と断りました。KISSの仕事をすることにした理由は、あの仕事の方がチャレンジだと思ったからです。どうやってステージでジャンプして動きまわっている4人の男たちのレコードを作るか? トーンは合っていないしタイミングも合っていない、歌もあまり上手くない上にステージの上では爆破が起こっている。そういうものをどうレコードにすればいいのか、それは大きなチャレンジでした。プロになり、今ではいいミュージシャンになりましたが初めはかなり粗かったんですよ。

Pci: それは1974年か1975年ですよね。

Eddie: 73年がデモを作った年で、KISSライブをやったのはいつだったかな?75年だと思います。

Pci: そしてLed ZeppelinとPeter Framptonのお仕事をされたんですよね?

Eddie: はい。その時期はPeter Framptonライブに集中していた時なんですが、Led Zeppelinとも連絡しあって、Led Zeppelin II、The House of Holy、Physical Graffitiなどの仕事もしました。

Pci: Led ZeppelinのJimmy Page(ジミー・ページ)とJimi Hendrix(ジミ・ヘンドリックス)の2人のギタリストの共通点、大きく違うところについてどう思われますか?

Eddie: Jimi HendrixとJimmy Pageを比較するとおもしろいです。両者ともスタジオでの集中力が凄いです。2人とも何がしたいのかはっきり分かっている。どうやってそこに辿り着くかは別の話なんですが、行きたい所は分かっていました。完成品のビジョンはもう既に頭の中にあって、そのビジョンを私はアーティストと共に創りあげていきました。アーティストが説明する曲を「こういう風にしたいんですよね」と理解することができたのが良かったんだと思います。2人とはとてもいい仕事関係を保てました。2人ともとても熱心だったし、楽器について詳しかったですね。Jimmy Pageのおもしろいところは、イングリッシュ・フォーク・ミュージックを勉強していたことと、いろいろな楽器が弾けたことです。彼はどんな弦楽器でも弾けましたね。とても鍛練された思想的なミュージシャンでもありました。彼はまたセッションミュージシャンでもありましたね。実はその関係で彼とは知り合ったんですよ。オリンピック・サウンドでセッションミュージシャンとして知り合いました。Jimi Hendrixも、軍隊で厳しい訓練を受けていたという点で鍛練されて勤勉なところは共通しています。彼はパラシュート兵だったそうです。彼の父親はとてもしつけに厳しい人で、そういうことも彼の音楽の中でプラスに作用したと思います。JimiのブルースやR&Bの源を見てみると、彼の軍隊での経験やその後の下積み経験がとても大切なものだと思います。現在世に出ているバンドを見てみるとああいう勤勉さと熱心さはあまりない様に思います。才能のあるバンドや熱心なバンドは沢山いると思いますが、根本的なものが違うと思います。昔のミュージシャンは自分が伝えたいことを音楽と感情で伝えることが第一で、今ほど売れるか売れないかとかを心配してなかったと思います。どれだけレコードで良いサウンドを創れるか、今までと違うことができるか、人をアッと言わせることができるか、という様なことが話しの種になっていた時とは状況が大きく違います。今はマーケットがどんな物を求めているかとか、いくら売れるかということが最重視されます。これはミュージシャンなどアーティストの直感には反することです。彼らは創作の自由を求めます。でもこれの逆説もあるかもしれませんね。Jimi Hendrixは規制されていたからこそ洗練されたものを作れたとも言えます。「このトラックは今までみたいに3週間とか3ヶ月とかじゃなくて、3時間で作って」というタイムリミットを決めたにも関わらず良いものをレコーディングできましたから。また、8分の曲を3分半にしなければならなくなり、要らないものを省くというプロセスを行うことでもっと凝縮され、洗練され、より良い作品になりました。

Pci: それでサウンドそのものもかなり変わってきませんか?

Eddie: そうですね。サウンドはある意味で変わっていると思いますが、それより曲の心理的な面での変化の方が大きいと思います。かなりカットしなければならなかったですからね。音符1つ1つがよくなければならないし余分なもののスペースは一切ありませんでした。これはかなり大切なことだと思います。そしてElectric Ladylandのアルバムをやっている1968年にはJimiと私だけになり、彼は羽をのばすようになりました。それからは3、4分といわず8分でも10分でも15分でも好きなだけやろうって感じになりました。プレッシャーがなくなったおかげでサウンドもかなり変わりました。

Pci: ところでその頃のミュージシャンのおもしろい写真をたくさん持っていらっしゃると聞きました。

Eddie: はい。www.kramerarchives.comで見れるようになっていますよ。

Pci: あなたの会社の名前も1990年にはRemark Music Limitedに変わったんですよね?

Eddie: えーと、1989年ぐらいだったと思います。

(次ページへ続く)