Michael DeTemple インタビュー (1/2)
ミュージシャンとして、またギタービルダーとして、プロミュージシャンの間では名が知られているユニークな人物、Michael DeTemple(マイケル・ディテンプル)と言う人に出会いました。ロサンゼルスの音楽シーンの歴史にずっとからんでいた人です。 ビルダーとしての腕も確かで、最近ではボブ・ディランにもギターを作っています。 ロサンゼルス郊外にある彼のガレージには珍しい逸品がありました! (6/26/2002) DeTemple Guitarsのサイトは下記です。
PCI:あなたの持っているギターには色々なおもしろいエピソードがあるお聞きしていますが? Michael:そうですね。 これは58年のストラトです。 このギターは30年程前、確か69年か70年に$200で買ったんです。 ギタービルダーのジョン・カラザースがカナダへ行った時にこのギターを見つけたそうです。 ジョンはWestwood Musicという楽器店の友人(Fred)のために買ってきたんです。 Fredとは私も仲がいいんですが、その頃私もいいストラトを探してたんでFredに問い合わせたところ、「この間ジョン・カラザースから$200で手に入れたストラトがあるよ。ほしかったら$200でいいよ。」って譲ってくれたんです。 これはいい買い物ですよね。(笑) それ以来大事にしている素晴らしいストラトです。 私の手に入るまでに色々なプロミュージシャンが使った伝説のストラトです。 PCI:世界に1台しか無いアンプとかギターなどの珍しいものをいくつかお持ちで、またミュージシャンとしても活躍されてます。 そして、ギタービルダーとしてもボブ・ディランなどに特注のギターを製作され大忙しですね。 なぜご自分でギターを作ろうと思われたんでしょうか? Michael:ツアーとかで演奏する機会が多くなり良い音は出したいんだけど、こういう貴重な、世界に1台しかない楽器を持ち歩くことはできません。 これらの素晴らしいVintage Guitarに劣らぬサウンドのギターを自分で作る必要にせまられたんです。 ギターのリペアの仕事はずっと長い間やってたんで、何をどうすれば良いサウンドが出るかは分かっていました。 Photo by Hiroshi Mochizuki (Copyright 2002 Hiroshi Mochizuki) PCI:では最初に作ったギターはストラトだったんですね? Michael:いや実はそうではなく、最初に作ったのはこのバンジョーだったんです。 15歳の時に友達と一緒に作ったんです。 マリブビーチへ行ってアバロニ・シェルを拾ってきて自分達で切ってインレイしました。 Photo by Hiroshi Mochizuki (Copyright 2002 Hiroshi Mochizuki) PCI:バンジョーも弾かれるんですね? Michael:子供の頃からバンジョーはずっと弾いてます。 (と言ってひとしきりバンジョーを弾いてくれる。 上手い! 拍手!) PCI:いつからバンジョーやギターを始めたんですか? Michael:8歳でギターを始めました。 最初はクラシックギターでした。 ここサンフェルナンド・バレーの近所でギターを持っている友達がいて、彼のうちでいつも弾かせてもらっていました。その後、11歳の時に教会で知り合ったある人が、私がいつも借り物のギターを弾いているのを知って、マーティンのギターをくれたんです。 本当に嬉しくて毎日練習しました。 15歳になる頃にはギター、マンドリン、バンジョーをかなり弾ける様になっていました。 PCI:そしてハイスクールを卒業後、ギターリペアの仕事を始めたんですか? Michael:いや仕事はもっとずっと前からやってました。(笑)13歳の時にアーニー・ボールで働いてました。 PCI:あのErnie Ball - Music Manのアーニーボールですか? Michael:そう、今では弦メーカーとして、またMusic Manブランドの楽器メーカーとして大会社になってしまいましたが、その頃はこの近くのTarzanaという町のVentura 通りで小さな楽器店をやってたんですよ。 その店でギター教室もやってたんで、スタジオの外から盗み聴きをしてました。(笑) レッスン料を払うお金が無かったんで、スタジオの外で耳を澄まして講師の教えている事を聞き、ギターやバンジョーの弾き方を覚えました。 余談ですが、実はその時アーニーボールの店で教えていたギターの講師が1年ほど前に偶然僕を訊ねてきたんです。 その時に弾いていたギターを売りに来たんです。 もう91歳でした。 「39年前にあなたのギターのレッスンを盗み聞きしてたんです。」って言いました。(笑) 彼のEpiphoneのアコギは即買って大事にしてあります。 PCI:素晴らしい話です。 思い出のギターですから売れませんよね。 アーニーボールで働いていた頃のことを教えて下さい。13歳から14歳の頃ですね? Michael:そうでした。 その頃アーニーボールでは楽器のレンタルをやってたんですが、そのレンタル用楽器のリペアを手伝っていたんです。 ムスタングとかミュージックマスターとかをよく修理しました。 PCI:その楽器店の名前はその頃からアーニーボールと言ったんですか? Michael:Ernie Ball Guitars という名前でした。 フェンダーのギターを多く取り扱っていました。 それからバンジョーやマンドリンも。 弦メーカーがライトゲージを作る前はバンジョーの弦をギターに使ってたんですよ。 PCI:まだその頃はアーニーボールも1軒の楽器店だったんですね。 Michael:ある日突然僕たち店員に、「これから弦を作ってメールオーダーをやるぞ!」って言ったんです。 これがアーニーボール躍進の第1歩でした。 すぐにTarzanaの楽器店の隣のスペースを借りて倉庫にし、あらゆるゲージのギター弦をストックし、全米にメールオーダーを始めたんです。 PCI:アーニーボールの歴史の最初を目撃されたんですね。 Michael:そうですね。 アーニーボールには大変感謝しています。 今こうしてギターを弾いたり作ったりして食べて行けるのも彼等のお陰なんです。 子供の頃、ギターのレッスンをただで盗み聞きさせてくれたし。(笑) お礼として、彼等のレンタルしてた楽器をリペアさせてもらいました。 そしたらある日アーニーが、「そこにあるギターから好きなやつ1本持ってけ!」って言ってくれたんです。 10〜15本ある新品ギターの売り物でした。 それで「これもらっていいですか?」って僕が手に取ったのは、56年 Martin D21でした。 美しいギターでした。 グレードも高いもので、今なら$20,000以上はするでしょう。 そんなギターを「いいよ。」ってくれたんです。 タダで。(笑) PCI:アーニーボールもあなたに感謝をしてたんでしょうね。 それでその後もずっとアーニーボールで楽器のリペアの仕事を続けられたんですか? Michael:ハイスクールへ行っている間もアーニーボールの店での仕事は続けました。 そして16歳から17歳になる頃には、ギター、バンジョー、マンドリンでバンド活動もやり、レコーディングやセッションで大変忙しくなったんです。 PCI:活動はロサンゼルスでしたか? Michael:そうです。 まだハイスクールへ行ってましたが、ミュージシャンとして結構その頃は稼げる様になってたんです。 PCI:リペアの仕事もミュージシャンとしての活動もやり、そして高校生でもあったんですね? Michael:そうですが、どちらかと言うとその頃はミュージシャンとしての活動がメインになってました。 14歳の時にBanjo Fiddle Contestという大会で、バンジョープレイヤーとしてグランプリを受賞したんです。 第4回目の大会でした。 毎年やってるんですがロサンゼルスでは権威のある大会で、今年は第41回目だそうです。 この受賞のお陰でその後、オーケストラやレコーディングでの話などバンジョー・プレイヤーとしての仕事が一挙に増えました。 PCI:14歳ですか。 すごいですね。 それをきっかけに色々な音楽のジャンルの有名ミュージシャンとのセッションなどをされたそうですね? Michael:そうですね。 デイブ・メイスンのレコーディングではバンジョーで何度も参加していますし、時々アコースティックギターも弾かせてもらいました。 カール・レイドル、ジム・ケルトナー、ボビー・キー、レオン・ラッセルなどとはよく一緒にプレイしましたよ。 Photo by Hiroshi Mochizuki (Copyright 2002 Hiroshi Mochizuki) PCI:先日Baked Potatoのドン・ランディにインタビューした時に彼も言ってましたが、その頃のロサンゼルスのミュージックでは彼も活躍されていたそうです。 丁度同じ時期にあなたもミュージシャンとして多忙期を迎えたんですね。 Michael:そうですね。 その頃のロサンゼルスでは常にセッションやレコーディングをどこかでやっていました。 ラリー・カールトンやディーン・パークスともよく一緒にセッションをしました。 私の場合、バンジョーという得意分野があったので重宝されたのかもしれません。 PCI:その頃のおもしろいエピソードがあれば教えて下さい。 Michael:有名なベーシストのジョー・オズボーンと仕事をした時のことですが、ある日彼が大変暗い顔で、「古い弦が切れてしまった。」って言うんです。 僕は彼のベースを見ました。 そしたら1本だけピカピカの新品の弦が張ってあったんです。「まさか他の弦はベースを買った時に付いていた古い弦のままってこと?」って聞いたら、「Yes, of course!」だって。(笑) 弦はしょっちゅう変えるのが当たり前だと思ってたんで、彼の言葉には笑ったけど、決して生涯忘れられないセリフになりました。 何千、何万曲とレコーディングして素晴らしいサウンドを出していた彼が、ずっと古い弦を大事に使ってたんです。 そしてその1本の弦が切れ、まるでこの世の終わりの様にがっくりと肩を落としていた姿は今でも目に焼き付いています。
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