斉藤光浩/増淵東インタビュー
増淵さん(左)と斉藤さん(右)
「バウワウのギタリスト、兼プロデューサーとしても幅広い活動をされている斉藤光浩さんと、同じくプロデューサーで活躍中の増淵東さんが、一緒にハリウッドのスタジオでアニメのイメージアルバムを製作中でした。 おもしろい話を聞かせて頂きました。」
PCI:斉藤さんはバウワウ以外にも幅広い活動をされていますが、音楽を始められたきっかけから教えて頂きますか?
斉藤:ほう〜 そこから行きますか? 長いですよ(笑) 中学校の3年の春までは音楽とかってそんなに興味がなかったんですよ。 普通 にテレビ見てて、歌番組やってたら見る程度で。 取り立てて誰々が好きだとかいうのも無くて、レコード買って音楽を一生懸命聴いたっていうのも全然なくて。 中学校3年の春まではね。 実は野球をやってたんです。 本気で甲子園行きたいと思ってたぐらい一生懸命野球やってたんで、野球三昧。 学校も勉強しに行くんじゃなくて、野球をやるために学校へ行くって感じでした。 中学3年の春に大会があって、一旦引退になるんですね。 その時に、どうしようかなって考えたんです。 横浜に住んでたんですけど、横浜の高校って野球の激戦区で強いとこってスカウトなんですよ。 中学3年のうちから目をつけられて「うちに来いよ」と。 でも僕ちっちゃくて細かったんですよ。 もうやめようかなと思ってたら、その時に友人がフォークギターを持ってて、一緒にやろうと。 そこから音楽に入ったんです。
PCI:フォークですか?
斉藤:ええ、吉田拓郎とかです。 今42になりますんで、その頃流行ってた音楽って想像つきますよね? 最初二人でフォークデュオをやって、で、おきまりで秋の文化祭とかに出てまして。 そいつがフォークもやりつつロックも弾いてて、そいつの家でロックを聴くようになって、そっからですね、本格的に洋楽を聴き始めたのは。 最初に聴いたのは、ディープパープルのマシンヘッド。 それを聴いて、コピーして、それからロックの方に行きました。
PCI:それからギターを本格的に弾き始めたんですね?
斉藤:いや、その時はベースだったんです。 何でベースだったのか自分でもよく判らないんですよ(笑)
PCI:本格的にギターを始めたのはそれからだいぶ後のことですか?
斉藤:その後、ローディーを募集している事務所があって、そこにやらせてくれって入ったんですよ。 そしたらローディーは無理だけど、今キャロルの弟分みたいなバンドを作りたいっていう話があって、やってみるかってことになったんですよ。 その時もうすでにベースがいて、そいつと僕でギターを弾かされて、で、ちょっと僕の方が弾けたものですから、僕がギターを弾くことになったんですよ。 だから、非常に芸能チックに決まったんですよ。 ちょっとロックと違うかなって?(笑)
PCI:キャロルの様なロックンロールをやられたんですか?
斉藤:じゃないですね、歌謡曲ですね。 その当時、75年頃は歌謡界でバンドブームみたいなのがあったんですよ。 それで、シングルを2枚出したんです。 何をどうしようか誰も考えてなかったんで、まー人気がなくなったらじゃ、終わる?みたいな感じでした。 テレビは1年間ぐらい「銀座ナウ」でレギュラーで出てたんで、その時に見ててくれた人が結構いましたね。 で、そのバンドが終わる頃にバウワウを作るんですけども、バウワウも自然発生的にメンバーが集まって出来たんじゃないんですよ。 まずプロデューサーがいて、最初は日本のベイシティーローラーズを作りたいということだったんです。 その後山本恭司が加わって、音出してみたら、これがすごいハードロックなんです。 で、そこで方向転換して「ベイシティーはやめよう、徹底したハードロックバンドを作ろう。」と決めたんです(笑)
PCI:バウワウのデビューはいつだったんですか?
斉藤:確かデビューは75年だったと思います。 ギタリストとしてはここからスタートしたということになります。
PCI:バウワウの活動は何年続いたんですか?
斉藤:バウワウは8年間やって、それから少し抜けたんですよ。 バウワウってブリティッシュハードロックじゃないですか。 それから始まったんですけど、もうちょっとロックンロール的なジョニーウィンターとかエアロスミスとかああ言った物が好きになりまして、ちょっと音楽性が合わなくなってきて、それで抜けたんです。 で、その後にARBっていうバンドに入って3年、その間もソロで活動しつつ、プロデュース業とかもやって現在にいたるってとこです。
PCI:現在のメインの仕事はプロデュースの仕事なんですか?
斉藤:どれがメインってないんですよ。 バウワウも、おととし復活させて、年に1回ぐらいやってます。 「もう一生解散するのはよそう、その替り、年に1回だけだぞ」っていうノリでやってるんです(笑)
PCI:オリジナルメンバーなんですか?
斉藤:はい。 でも、ベースのキンさんっていう人は音楽の仕事をしてないんで、ゲストみたいな感じで出るんですけど。
PCI:サノケンジさんって言うお名前ですか?
斉藤:そうです。
PCI:先日、カラパナのベーシストとして、また安室奈美恵のバンマスをやってみえるサノケンジさんとお会いしまして、バウワウのサノケンジさんと同姓同名なんで、よく問い合わせがあると言ってみえました。 ヨーロッパへツアーに行った時に、詳しい人が「おまえはどっちのサノケンジなんだ?バウワウか、カラパナか?」って聞かれたそうです。 バウワウのサノケンジさんはどうしてるんだろうという話が出ました。
斉藤:もう音楽とは違う仕事をやってます。 ただライブの時とか、今回のアルバムの時なんかは、手伝って弾いてくれます。
PCI:バウワウのサノケンジさんはどんな字を書かれるんですか?
斉藤:佐野賢司だったと思います。
PCI:カラパナのケンジさんは佐野健二です。 今度彼に伝えておきます。 バウワウ以外にも演奏活動されてるんですか?
斉藤:「KIT16」というバンドもやってます。 ARBと甲斐バンドにいた田中一郎っていう人と、セッションをバリバリやって、休みがほとんどない河村カースケ智康っていうドラムと僕の3人でやってます。 こっちは年に1回ってわけではないですけど、ただ通 常のバンドみたいに、年間通してべったりとは仕事しないです。 ライブをやったり、アルバムを出したりするバンドが2つあって、それと、プロデュース業ってことですね。 どれがメインってわけではなくて、虫のいい話ですけど、どれも楽しくやってます。
PCI:斉藤さんのイメージというと、LP ブラックビューティーやテレキャスターカスタムがまず浮かぶんですが、最近はどういった器材を使われていますか?
斉藤:実はあのLPはギブソンじゃなくてナビゲーターなんですよ。 皆、ギブソンだと思ってくれるんですけど。 ロスに来る前に雑誌のプレイヤーの取材があったんで、そこに最近の器材が紹介されています。 ただ、そうやって改めて自分のギターを見てみるとほとんど日本のものばかり。 あまり思い入れみたいなのがなくて、使わなくなると売ったりしちゃうんです。
PCI:では結構器材の入れ替わりは多いんですね?
斉藤:この前もバウワウのレコーディングの時にアンプを探してて、増淵君が最近手に入れたDr. Z を奨めてくれて、音は気に入ったんだけどコントロールがボリュームとトーンだけなんで、もっとツマミがあるやつ試したいと思ってたけど時間的に無理だったんです。 それで知り合いが持っていたネイラーのコンボを手に入れてバウワウのツアーでも使いました。 今回もロスでいいテレキャスターがあれば買いたいんですよ。 できれば自分と同じ1958年生まれの。
PCI:1958年ならLPがいいんじゃないですか?
斉藤:いやーいいんだけどさすがに値段がねえ。 LPはグラミー賞取った時かな? 割と最近はテレキャスターの雰囲気なんですよ。
PCI:プロデュース業では増淵さんと一緒に仕事をやらているわけですね?
斉藤:基本的には二人で「DNツインズ」って言うんですけど、ユニットプロデューサーなんです。 こっちだと「ジャム&ルイス」とかストックエイティントン何だか?とか、色々いるんですよ、海外には。 複数でチームになってプロデュースをやるっていうのが。 日本にはないですけど。
PCI:そういうのは日本ではユニークな存在なんですね?
斉藤:日本にはないですねぇ〜 弟子みたいな感じの人はいますけどね。 アシスタントみたいな人が一緒にやってるっていうのはありますね。 我々みたいに横並びで一緒にやってる人はおそらくいないでしょう。
PCI:増淵さん、斉藤さんとの出合いはいつだったんですか?
増淵:一昨年前です。 去年の12月まで私はサラリーマンだったんです。 「イーストウエスト」ってとこで働いていたんですけど、そこへ斉藤さんもプロデューサーとして移籍されてきて、一緒に仕事をする機会ができたんです。
斉藤:そう。 結局僕も今年の5月か6月までは「イーストウエスト」にいたんですよ。
PCI:お二人が一緒に仕事をし始めたのは、最近の出来事だったんですね。 何か、ずっと前からお二人で仕事してた様な感じがしました。 それで、どうして増淵さんはサラリーマンをやめて独立されることになったんですか?
増淵:色々理由はあるんですけど。 サラリーマンとして終えようと思えば、確かにおいしい位 置にはいたんです。 ただなんか全然自分らしくないんで、何が自分かっていうのがまだ判ってはいないんですけど、で、その疑問があった時に、他のメーカーのアーティストのプロデュースをしてほしいって言う話があって、それもいいかな?って思ったんです。 それからある企画プロジェクトがあって、音楽を一緒にやらない?っていう話が斉藤さんからあったのが二人でやることになったきっかけですね。
斉藤:増淵さんが会社をやめてから、二人は別 々に仕事してたんですよ。 その後、インデペンデントで二人で一緒にやろうと言うことになったんです。 だから二人で仕事を本格的に始めたのは今年の始めからですね。 まだ1年も経ってないんですよ。
PCI:今年、色々二人でプロジェクトやっていたと思います。 グリーンベアは聞かせてもらいましたが、それ以外にはどんなプロジェクトがありましたか?
増淵:「Moopie」っていうバンドとか、企画もののサウンドトラックとか。
PCI:今回でロスでミキシングされているのはどういう物ですか?
増淵:これはバンドではなくて、「最遊記」っていうアニメのイメージアルバムなんです。
PCI:うちの娘が日本で流行ってるって言って、ロスの日系レンタルビデオ屋で「最遊記」を借りて、昨日見てたとこです。 「西遊記」を基にして作ったアニメで、字は「最遊記」って書くんですね。
増淵:そうです。 それの第2段のアルバムを今やってるんです。 第1段はもう発売ずみですよ。 アニメの中身のイメージとリンクして、かつ音楽として成立する物として作ってほしいという依頼で作ってるんです。 二人とも、アニメ、全然見ないし読まないんですけど、今回は研究しましたよ。
PCI:このアニメの仕事は今までの仕事と毛色は全然違うんでしょうか?
増淵:中身的にはむしろ本来のプロデュースの仕事と近いかもしれません。 テーマを与えられて、作る作業に関しては人選、スタジオの選択も含めて全部こちらで仕切るんで。
PCI:早速ボリューム1を買ってこようと思います。
増淵:ロスのメルローズアベニューのビバリーセンターの近くに、「アニメート」という日本のアニメのCDやグッズを売る店が出来ましたから、そこへ行けばアメリカでも手に入りますよ。
PCI:今回、この「最遊記」を完成させるのに、ロスを選んだ理由は何ですか?
増淵:クライアントさんが「アニメイト」っていうショップをロスに作ったんで、それを視察したいってことと、「レコーディングもロスで如何ですか?」って言われて、「全然OKです」ってことになったんです。 ロスにはナカイケンジっていう、本当にいい音を作ってくれるエンジニアがいますから。 今回も彼と一緒に音を作っています。
ナカイさんと仕事中の増淵さん
PCI:今日本のアニメはアメリカでもすごくウケてますよね。 ポケモンにデジモンに少女漫画に。 日本のアニメや原作が英語に訳されてどんどんこちらでも販売されていますね。
増淵:こないだビバリーヒルズのワーナーブラザーズのショップへ行ったら、その中でドラゴンボールのキャラクターグッズが売ってたんですよ。
PCI:アニメは数少ない日本が輸出できるソフトとして大きな産業になりつつありますね。
斉藤:もうアジア圏はすごいですよね。
PCI:今後、バンドのプロデュース以外にも仕事の幅がアニメで広がりそうですね。
斉藤:そうですね。 昔は映画のサウンドトラックの世界が多くあったんですけど、今の日本は映画って厳しいじゃないですか? そういう意味ではこのアニメの動きは面 白いですね。
PCI:バンドなんかをプロデュースしてレコーディングするのと比べて、アニメの仕事はどこが大きく違いますか?
増淵:レコーディングの作業としてはまったく同じですけど、大きく違う点は、アニメの場合、コンセプトだけがあって、すべてをゼロからスタートさせなくちゃいけないってことです。
斉藤:ほかの方々のやり方は知りませんけど、僕たちの場合、アニメの原作者と頻繁にやりとりをしながら進めて行くんです。
PCI:原作者の意図を正確に伝えるという意味ですか?
増淵:そうですね。 なにか僕らもレスポンスが無いと、やりがいもないんで。 アニメの場合、産みの親である原作者のレスポンスを重要視してます。
PCI:アニメ見ましたけど、なかなか面 白そうですね。 今日はお忙しいとこ有り難うございました。 最後に写真を撮らせて頂けますか?
増淵:今朝4時までやってたんでヒゲも剃ってないんですよ。
斉藤:え、写真!? もう顔ボロボロですよ(笑)
最後にポーズを決めてくれた斉藤さん
2000年12月28日
場所:ハリウッドのレコーディングスタジオ、「RUSK
SOUND STUDIO」にて
インタビュアー:PCI
堀場/三浦