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Michael Wardインタビュー (1/2)

 

ジョン・ハイアットやウォールフラワーズのリードギタリストとして活躍してきたマイケル・ワード(Michael Ward)が、遂に自分のバンドWARDを結成し活動を開始しました。自分のやりたい音楽について、またウォールフラワーズを脱退した本当の理由について率直に語ってくれました。 詳細は彼のサイトを(こちら)をご参照下さい。(4/25/02)

ウォールフラワーズへの参加と脱退のいきさつ

PCI:先日のRoxy でのライヴはとても楽しめました。 すでに日本の読者からいくつか質問を預かっていますので宜しくお願いします。 まずはいつどこで生まれたか、またギターを始めたきっかけから教えて下さい。 

Michael:1967年にミネソタ州ミネアポリスで生まれたんだ。 ギターを始めたのは10才の時で、その頃KISSの大ファンだったね。 最初はドラマーのピーター・クリス(Peter Criss)が好きになりドラマーになりたかったんだ。 両親がスティックとパッドを買ってくれたんだけど、それだけじゃ大きな音が出ないんでつまんなかった。 そして、すぐにギタリストのエース・フレーリー(Ace Frehley)が好きになってしまったんで、結局ギターをねだって買ってもらったんだよ。(笑)

PCI:それからすぐバンドを組んだんですか?

Michael:まずギターレッスンに通って、その後13才の頃からバンドで弾くようになったんだ。 バンド活動は中学、高校とずっとやったんだけど、いつもバンドメンバーは僕より年上の人が多かったんで、たくさんの人に色んな事を教えてもらったよ。

PCI:バンドではどんな音楽をやってたんですか?

Michael:その頃はヘビーメタルだったね。 Van Halen、AC/DC、UFOなどヘビメタのバンドのコピーばかりしてたよ。

PCI:その頃はどこのハイスクールだったんですか?

Michael:ミネアポリスだよ。 ハイスクールを卒業後、19才でロサンゼルスに来てGITギタースクールに入ったんだ。 

PCI:GITには何年行ったんですか。

Michael:1985年から2年間。 卒業してから数年間はGITでギターを教えてたんだ。 GITでの経験はその後の活動に本当に役に立ったよ。 その頃は一日に12時間は練習して、習った事は全部身に付けようとしてたね。 ジャズや他の音楽にもギタリストとして目覚めたんだ。 ジョー・ディオリオ (Joe Diorio)という素晴らしいジャズギタリストともこの時に友達になって多くのことを学んだよ。今でも尊敬してるよ。

PCI:その後改めてロサンゼルスでバンドを結成されたんですね?

Michael:そう、1988年に School of Fish というバンドを結成したんだ。 ジョシュ・クレイトンフェルト(Josh Clayton-Felt)という才能あるシンガーソングライターと一緒にね。彼のサイトはこちらだよ。 キャピタル・レコードと1989年に契約しレコードを発売したんだ。 2枚アルバム出してまあ成功したと思うよ。 今でもジョシュとは仲はいいんだけど、その頃は音楽性の違いから結局バンドは数年で解散したんだ。 そして解散する直前にジョン・ハイアットのバンドで演ることになったんだ。

PCI:ジョン・ハイアットとのプレイも有名ですが、どの様に一緒に仕事をすることになったんですか?

Michael:友達のマット・ウォレス(Matt Wallace)という人がSchool of Fishの2枚目のアルバムをプロデュースしたんだけど、彼とある日ハイキングへ一緒に行った時に、「俺、今度ジョン・ハイアットの歌のプロデュースするんだけどギタリスト探してんだ。 興味ある?」て聞かれたんで、「ただでもやるよ。」って答えたんだ。(笑) ジョン・ハイアットは大好きだったんでね。 丁度その頃、School of Fishの方も解散することになり時間もできたんで、ジョン・ハイアットのレコーディングにもツアーにも参加することができたんだよ。 

PCI:ジョン・ハイアットとあちこちツアーに行かれてますね?

Michael:全米とヨーロッパツアーは全部一緒に行ったよ。 残念ながら日本へのツアーは無かったけど。 3年ほど彼と仕事をしたんだけどヨーロッパでの彼の人気はものすごかったよ。本当に彼との仕事はギタリストとしていい経験になった。 素晴らしいソングライターだし、有名ギタリストのライ・クーダー(Ry Cooder)とも一緒に仕事ができたし。

PCI:3年ほど一緒に仕事をしてご自分から辞めたんですか?

Michael:ジョン・ハイアット・バンドは本当にいいバンドだったけど、やっぱり自分のバンドで活動がしたくなって辞めさせてもらったんだよ。 今でも彼らとはいい友達だよ。 ロサンゼルスで自分のバンド、トリオの「Tiny Buddy」っていうのを結成したんだ。 プロデューサーのマット・ウォレスがFish of Deathという自分のレーベルを立ち上げたんで、彼と一緒に2枚CDを出したよ。 そして、その後1996年にウォールフラワーズ(Wallflowers)から話が来たんだ。

PCI:ウォールフラワーズでのあなたのプレイは日本でも大変有名ですが、どういういきさつで一緒にやることになったんですか?

Michael:T-Bone Burnettって言うウォールフラワーズのプロデューサーから電話があって一緒にやらないかという誘いがあったんだよ。 でもね、その頃自分のバンドで活動することが楽しくて最初は断ってしまったんだよ。 断った後、やはりギタリストとしてこういう仕事も受けた方がいいんじゃないかと考え始めてたんだ。 そしたらタイミング良く2週間後にまたプロデューサーから連絡があり、取りあえずウォールフラワーズのレコーディングでギターを弾いたんだよ。ヒットした「Bringing Down The Horse」っていうアルバムだね。 そしたらジェイコブ・ディラン(Jakob Dylan)から正式にバンドメンバーになってほしいと要望があったんだ。 その頃まだ自分のバンド、Tiny Buddyをやってたんで、できるだけウォールフラワーズのレコーディングやライブには参加させてもらうけど専属にはなれないと回答したんだ。 だけど結局ウォールフラワーズが急に売れて超多忙になり、1996年後半からは専属メンバーの様になってしまったんだ。

PCI:「Bringing Down The Horse」は日本でもポピュラーでしたが、曲作りにも関与されたんですか?

Michael:いや、完全にギタリストとしてのみの参加だったね。その後、「Breach」っていうアルバムを出し、僕自身の感性やアイディアが盛り込まれる様になったんだけど、実はこの頃から少し音楽的にバンド内がしっくりいかない様になったんだ。

PCI:音楽的にあなたの表現したいことと、他のメンバーのめざすものが食い違って来たんですね?

Michael:そう、これはあまり話していない本当のバックステージ・ストーリーなんだけど、音楽的にめざすものが異ってくると、同じバンドで一緒に活動を続けるのは難しいんだよ。僕はギタリストでもあるしまたクリエイティブなソングライター、アーティストでもありたいんで、やはりその辺が強力な個性のあるジェイコブ・ディランのウォールフラワーズとはお互いに妥協できなくなっていったんだ。 これはあくまで音楽的なアーティストとしての対立ということなんだ。 そこで2000年の10月に、僕の方から辞めるということを正式に申し入れたんで、そこで僕の気持ちとしてはウォールフラワーズでの活動は終わったんだよ。 ところが契約上1年はバンドに留まってツアーとかに出てほしいということになり、結局実際に表向きにウォールフラワーズを脱退したのは2001年の10月ということになっているんだ。 この1年はアーティストとしてはちょっと苦しかったね。 他のバンドメンバーにしても、辞めると判っている僕と一緒に1年間プレイするのはきつかったと思うよ。

PCI:そうだったんですか。 あれだけ人気のあるバンドですから、スケジュールやファンのこともありアーティストの自由にはならないんですね。 結局辞められたのは日本ツアーの直後ですね?

Michael:そうだね。 日本でのツアーは良かったよ。 ファンも僕たちもコンサート自体は気持ちよく楽しめたと思う。ウォールフラワーズはグレートなバンドだし、ジェイコブも大変才能あるアーティストだよ。 ただ音楽的に僕とはめざす方向が違うだけ。