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2009年01月12日

第46回;あるブルースマンの死

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HIROMASA SUZUKI: From Where I Am
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***確か1997年だったと思う、
たまたまあるバンドのギグで一緒に仕事をしたべーシストが、
彼がその当時やはり所属していた六十代後半のブルースマンの
バックアップバンドに俺を推薦してくれた。
アリゾナ州トゥーサンからここNYにやってきたという
そのブルースマンとの最初の仕事は今でも決して忘れない。
セントラルパーク西のかなりハイソなエリアにある小さなクラブでの演奏で、
客席には元ヤング・ラスカルズのメンバーや
ビリー・ジョエルのバックアップ・バンドのメンバー、
そして元マウンテンのギタリスト、レズリー・ウエストや
KISSのマネージメントに携わっていたという人々、
そして俳優のブライアン・デナヒーといった、そうそうたる顔ぶれがあったからだ。
「いったいこのブルースマンは何者なんだろう?」と思うまま初日の演奏をこなした。
素晴らしいオリジナル曲、素晴らしいアレンジメント、
素晴らしいギター、素晴らしいヴォーカル、
そして傑出したステージプレゼンス 。
演奏後にラスカルズのエディ・ブライガティやレズリー・ウエストと話すチャンスがあり、
このブルースマンがどんな男なのか話してくれた。

www.myspace.com/sambluzmantaylor
...1934年アラバマ生まれ、
父親はジャズ・サキソフォン・プレーヤー、
10代でニューヨークに移り22歳で結婚、
電気技師としてアメリカ海軍に従軍し朝鮮戦争に参加、
その後は居を一箇所に構えることなくアメリカ全土を渡り歩きながら
ツアー・ミュージシャン、レコーディング・ミュージシャン、
ソングライター、プロデューサーとして
エルヴィス・プレスリー、オーティス・レディング、サム&デイヴ、ジミ・ヘンドリックス、
ウインター・ファミリー、アルバート・コリンズ、ジェシ・エド・デイヴィス、
アイズリー・ブラザーズ、ジョイ・ディー、等々、等々、と音楽活動に没頭、
今回、再度ニューヨークに戻ってくるということで、
今度こそ彼のメジャー・デビューを実現させるべく
彼を旧くから知る有志たちがこうして集まった...
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素晴らしいキャリアと才能、そうそうたる人脈、
ではどうして今日までメジャーデビューを果たせずにいるのだろう?
当然のように浮かんでくる疑問への答えはこうだった。

...“Bad Business”、
今までに一体どれだけの曲を書き、
どれだけのアーティスト達がこの男の書いた曲を唄っているのか、
この男本人にさえもわからない、
著作権を管理するという、音楽ビジネスにおいて最も重要な作業を
長い長いキャリアにおいて怠ってきてしまった、
「契約を結ぶ」、「サインする」、という、
両者の間にビジネスを成立させる最後の作業を前にすると、
異常なまでにアレルギー反応を起こし全てを御破算にしてしまう...

後日、デボラ・コールマンにこの男の話をすると、
こんな一見馬鹿げた姿勢は年配の黒人アーティストにあっては
けして珍しいことではない、というのだ。
突き詰めれば、契約すること、サインすることは、
自分が誰かの所有物になってしまうという感覚が彼らの中に強くあり、
それは父母や祖父母が奴隷として誰かの所有物であったという
忌まわしい記憶に直結するのだという。

この夜のギグ以降、2000年までのおよそ3年半、
俺はリード/リズムギタリストとして、
この知る人ぞ知るブルースマンのバックバンドに在籍し、
緊張感あふれる彼のライヴパフォーマンスからは常に多くを学ばせてもらった。
特にメンバーに成りたての頃、演奏の最中に彼は時々俺に "Easy." と耳打ちした。
最初これが何を意味するのか、俺には全くわからなかった。
この頃から自分の演奏を後でプレーバックする為に
小さなテープレコーダーを持参するようにしていたのだが、
彼が "Easy."と耳打ちした箇所を聴きなおしてみると、
そこでは決まって俺がギターをオーヴァープレーしていて、
バンド全体の体温や色彩と俺のギターの温度、カラーが離れすぎてしまっているのだった。
その当時俺がメインに使用していたテレキャスターと335のボディーには
今でも彼のこの言葉 "Easy"を残してある。
いかに「弾かない」ことが大切か、いかに音と音の間に感情を込めることが大切か、
それを最初に極めてリアルに教えてくれたのが、
この男 SAM “BLUZMAN” TAYLOR だった。
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2000年中頃にバンドを離れて以来、しばらくはお互いに連絡を取らずにいたが、
2003年にデボラ・コールマンのツアーでサムの住むロング・アイランドで演奏した時は
楽屋までわざわざ訪ねて来てくれて
「ヒロ、デボラとばっかり仲良くしていないで、たまには俺とも付き合えよ !」と、
相変わらずの元気たっぷりな姿で迎えてくれて、
ショーにも飛び入りし、素晴らしい演奏を披露してくれた。
風の噂でサムが癌を患ったと聞いたのは、確かその直後だったと思う。

2007年7月、サムとの共通の友人から突然電話があり、
「『サムがスタジオまで車で乗せて行け。』と言うのでそうする。」と連絡があった。
2006年に俺のオリジナルアルバム “FROM WHERE I AM”の制作をスタートした時、
サムはどうしてもレコーディングに参加してもらいたいアーティストの一人で、
サム本人も乗り気だったが、体調もだいぶ良くないと聞いていたし、
電話で直接話した際も、声に張りがないのがはっきりと聞いて取れたので
この体調でスタジオまで来てもらうことはまず無理だろうと理解し、
サムの参加は無いとした上で残りの作業を先に進めている矢先だった。
かつてのパワー、声の張りが無くなったのは否めないにしろ、
相変わらず聴く側の心を温めてくれる素晴らしい歌で“Members Only”を唄い、
リードシンガーに一段高いところから相槌を打つかのような答えるかのような
絶妙なタイミングでのバックアップヴォーカルを“Mojo Workin’”で残してくれた。
myspace.com/hirosuzuki

2009年1月5日夜、
サムをスタジオまで送ってくれた友人から
「今朝サムが亡くなったよ。」と連絡があり、
8日夜、ブルックリンのある教会での葬儀に参加した。
まるで眠っているかのように穏やかな棺のサムに
心から「ありがとうございました。」と伝えることが出来た。

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投稿者 hirosuzuki1 : 2009年01月12日 03:56

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