2006年09月12日
第34回:随想、そして9月11日。
***7月28日、ペンシルヴァニア州北東部のスキーリゾート、マウント・ポカノでの「ポカノス・ブルース・フェスティヴァル」に、ジョー・ルイス・ウォーカーのバック・アップで参加した。本番が予定では午後6時15分からで、午後3時45分からのサウンド・チェックはいつになく入念に、自分自身のアンプは勿論、モニターから帰ってくるバンド全体のバランスをゆっくり時間をかけて調整した。常日頃からメインテナンスには金と時間をたっぷりとかけ、自分にとっては体の一部ともいえるギターとペダル・ボード(エフェクター)は当然のように気持ちよく鳴ってくれていたし、フェスティヴァル側の用意してくれたフェンダー・デヴィルも上々のコンディション、ショーの始まる5分前の最終チェックでも全く問題はなかった。ところが、事もあろうに、本番の一曲目が始まるや否やペダル・ボードどこかが故障し、全く音が出なくなってしまったのだ。とても残念なことだが、こういうトラブルはどんなに日頃から注意していても、突発的に起こってしまうものらしい。その時点ではどのエフェクターが原因なのか全くわからなかったので、急遽ペダル・ボード全体を配線から取り除き、ギターとアンプをケーブル(ギター・コード)一本で直に繋いでなんとか急をしのいだ。
デボラ・コールマンや今回のジョー・ルイスのような、いろいろなキャラクターでロック・ブルースを演奏するリード・ギタリストのバックアップで、コーラスやディレイそしてオーヴァー・ドライヴ(RCブースター、BBプリアンプ)なしでリズムギターをダイナミズムやアクセントを保ちながら弾くのはかなり忙しく、難儀な作業だ。アンプのマスター・ヴォリュームとゲインのバランスで音の「噛み付き」をキープし、ギターのヴォリューム・ノブ、トーン・ノブを細かく調節しながら各ピック・アップを使い分け、そこに最適なリヴァーブをかけてみる。ドラムス、ベース、リード・ギター、そしてヴォーカルの各パートを一つにまとめる接着剤のような役割をリアル・タイムで進行するライヴ演奏の中でこなすのは、単純ではないし、だからこそバンド全体がタイトにまとまった時の気分は最高だ。結局2曲目の後、ジョーが若干長めのMCを取る間にトラブルの原因がコーラス・ペダルにあることがわかり、それだけを取り除いたペダル・ボードを再びつないで残りのショーを無事に終らせた。(やはりRCブースターには助けられる。)G.A.JUKEの超強力なグルーヴにサポートされたジョー・ルイス・ウォーカーは無敵で、同フェスティヴァルに参加していた数あるビッグネームを軽々と吹き飛ばす圧倒的なパフォーマンスだった。
こんなハプニングがおこるたびに痛感させられることがある。エフェクターがギターの音をいかに劣化させるかだ。エフェクターの数が増えるに従って徐々に濁り、細く痩せてくる。ワウ・ペダルなどはその際たるものだ。真空管アンプに「直」でつないだギターの音は、やはり暖かくリッチだし、アンプそのものがナチュラルに歪んだオーヴァー・ドライヴのトーンはどう頑張ってもエフェクターでは再現しきれない「太さ」がある。これから年末に向けて更に新しいエフェクターの多用が要求されるようなプロジェクトへの参加が決まりそうな折、Xoticから新しいペダル・ボックスが届いた。それもまるでタイミングでも計っていたかのような「X-Blender」、新しいコンセプトのループ・ボックスだ。既存のループ同様、スイッチ一つで「アンプ直」状態と「ペダル・ボード・スルー」状態を選べるのは勿論、スルー時に減衰するトーンをヴォリューム、トレブル、ベースの三つのノブと一つのブースト・スイッチで修正することが出来、さらには「アンプ直」状態と「ペダル・ボード・スルー」状態の両者をミックスする「Dry/Wet」ノブが装備されている。このボックス、ひいてはこれらのノブがどこまで実際のライヴ・パフォーマンスで重宝するのか、今の段階ではまだなんともいえない。しかし演奏者自身が気分良く酔えるような音を創らなければ何も始まらないのだから、このX-Blenderのような、純粋にミュージシャンのために作られたペダルにはどうしても期待してしまう。
***中学生の時、プログレ(プログレッシヴ・ロック)というジャンルにはまりまくった時期があった。ピンク・フロイドやイエス、そして中でも最も聴きまくっていたのがELP(エマーソン・レイク・アンド・パーマー)という三人組のバンドだった。ライヴ・アルバム「展覧会の絵」でノック・アウトされ、その後購入したアルバム「トリロジー」で完全にプログレ病にとりつかれた。その後すぐに「ファースト・アルバム」、「恐怖の頭脳改革」と買い漁り、「タルカス」というアルバムを聴き始めた頃に、「展覧会の絵」のオリジナルであるムソログスキーを偶然に聴いた途端に、昨日の夜まであんなに聴きまくっていたELPが突然安っぽく聴こえてきて、急にアホらしくなりそれ以来ぷっつりと聴かなくなった。これはもういまから30年も前の話で、今日ではもしラジオや街角でELPの曲が流れればひどく懐かしくてワクワク聴き惚れてしまうだろうし、中古CD 店にでもこれらのCDが安く並んでいれば、きっとその場に立ち止まって「買おうかな?」と迷ってしまうことだろうが、そのときは自分でも不思議な気分になるほど、一晩にして全く聴く気が失せてしまったのだ。
ここまで極端ではないにしても、かつては寝る暇も惜しんで聴き漁るほど好きだったバンドやジャンルを、今では全くといっていいほど聴かなくなったというような話は、おそらく誰にでも身に憶えのあることで、ではそれが無駄だったかと問われれば、勿論そんなことはないはずだ。いくらブルースという音楽に長年身を漬けているとはいえ、さすがに今ではテン・イアーズ・アフターのへヴィー・オーヴァー・ドライヴ超早弾きブルースを朝から晩まで聴きまくる気にはなれない。でも中学3年の頃、映画「ウッドストック」に完全にノック・アウトされた頃は、確かに朝から晩まで「夜明けのない朝」や「アイム・ゴーイン・ホーム」や「ウッド・チョッパーズ・ボール」を聴いていた。当時はこれ以外に信じられるものが無いくらい本当に好きで好きでたまらなかったのは確かだ。そしてそんなだったからこそ、次々と貪欲にブルースに深く深くのめりこんでゆくエネルギーも持続した訳だ。ここにきて、誰もが経験したはずのこんな経験、言い換えれば音楽を聴き続ける上でのこういったプロセスが、音楽シーンそのものによってひどくないがしろにされ続けているように思える。
「フィルモア最後の日」というライヴ・アルバムを御存知だろうか?60年代のロック黄金時代を支えたライヴ・スペース、フィルモアが1971年に閉鎖される際にサンフランシスコでおこなわれたフェアウェル・コンサートのライヴ録音で、サンタナやタワー・オブ・パワー、ボズ・スキャッグズやエルヴィン・ビショップ、そしてタジ・マハール等といった、今ではレジェンドと呼ぶにふさわしい彼等の素晴らしい演奏が収録されている。そして同じくこのアルバムに登場する、彼等以外のミュージシャン達、技術面でもセールス面でもお世辞にもトップ・クラスとは言えなかったにしても、間違いなく「60年代アメリカの音」の代表である彼等の個性的な演奏が、この時代の音楽がいかにリスナーと同体だったかを改めて感じさせてくれる。これらのヘタをすれば鼻についてしまいかねない程の強烈で個性的なサウンドがいつもAMラジオから流れていたとすれば、聴く側に取っても60年代とはさぞかし音楽にのめりこみやすい時代だったに違いない。今ではミュージシャンとリスナーとの間には音楽ビジネスがいつの間にか設けた非常に窮屈で退屈なフィルターが存在し、仮に60年代の彼等のような個性的なミュージシャンが発するサウンドが存在しているとしても、それがリスナーの耳に届く遥かずっと以前に自動的に排除されてしまう。残念ながらこれでは更に深く掘り下げたくてもその足がかりを見つけることができない。もうこうなったら聴く側がすすんでライヴ演奏の場に足繁く通うしかないようだ。
今年の2月に帰国した際、日本には今でも非常に多くのライヴ・ハウスが存在していることを目の当たりにした。どの店のオーナーも音楽が大好きで、なんとかして良いライヴ演奏をキープしてゆきたいという情熱を持っている。週末のデート、いや平日の仕事帰りでもいい、行きつけの居酒屋をちょっと休んで、試しに一度ライヴ・ハウスに足を運んでみてほしい。ネクタイを緩め、一番上のボタンをはずして、気取らずリラックスして、プレーヤー達がどんなことを考えながら音を出しているのかを勝手に想像しながら、少し演奏にも耳を傾けてみると面白いかもしれない。そして何かを感じたなら、演奏後にでもためらうことなくミュージシャンに話しかけてみるのもいいかもしれない。店を出るとき、「あぁ、ビールが美味かったな。」と思ったら、また立ち寄ればいい。たまに聴くライヴ演奏も悪くないもんだ、と再発見するはずだから。
***1960年代の終わり、泥沼化するヴェトナム戦争に目の色を変える国家へ皮肉を込めて、ジミ・ヘンドリックスは69年のウッドストック・コンサートでアメリカ国家「スター・スパングルド・バーナー」をストラト・キャスターとマーシャル・スタックで攻撃的にプレーした。このテイクは今では自由で平和で友好を愛するアメリカ人にとっての「真のアメリカ合衆国」を象徴するかのように今日でもことあるたびにオンエアされ続けている。いままでにいくつかのツアーで、演奏先の国歌をアレンジしプレーしようと試みてみたが、その多くの場合で主催者側からの拒否を受けた。スペインのマドリッドでは演奏が始まる寸前にクラブ・オーナーが「この国には4つの民族が常に対立している。国歌を嫌う連中もいるので、遠慮してくれ。」と言われた。アパルトヘイトの名残が街中に残っていたヨハネスブルグでは、二つ返事で「NO」。共産主義崩壊から僅か6年しかたっていないモスクワでは国歌を知るものさえいなかった。問題を抱えず、過去に間違いを犯していない、全ての国民が100%胸を張って自国の国歌を歌える国家など今の世界にはひとつもないのではないだろうか?
個人的にはなんら身に憶えのない、先人達が無責任に撒き散らしていっただけに見える問題でも、それらをなんとかして解決し、過去の過ちを償う努力や労力を半永久的に怠らず引き受けててゆくことは国民一人一人に課せられた宿命とも思える。今日本では、第二次世界大戦のA級戦犯を合祀している靖国神社への政治家の参拝への是非が問題になっているらしい。これをめぐって他国、特に中国や韓国とは相当険悪なムードになっているというし、日本国内でも「国を代表する役職の参拝は控えるべきだ。」とか「A級戦犯を分祀するべきだ。」という意見が多いらしい。確かに参拝を控えたり分祀したりして周辺諸国に配慮するのは簡単かもしれない。でも気になって仕方がないのは、そのA級戦犯たちが真に「戦犯」と呼ばれるべきかどうかの論議は別として、彼等の霊に手を合わせることを否定したり別な場所へ分祀したりすることは、国民として別な意味での責任回避になってしまいはしないか、ということだ。つまりこれは、純粋に国を憂いて死んでいった一般兵士や軍人にだけ祈りを捧げ、逆に戦争犯罪者と呼ばれる軍人や政治家には、彼等が純粋に国を憂いていたかいないかに関わらず、あくまでも犯罪者として対処し祈りを捧げない、ということで、それは国民が自国の過去の罪、「負の遺産」に蓋をし記憶の外に廃棄しようとしているようで、なんだかひどく無責任な行為に映ってならないのだ。戦前戦中と、少数ではあるが知識人や政治家、そして軍人の中からも、戦争に反対する意見は確実に存在していた。それらの意見を圧殺し、鳴り物入りで戦争に突っ走った国家と国民の責任は、たとえそこにどんな重くやむを得ない理由や言い訳があろうと、到底回避できるものではないと思う。負うべき責任はたとえどんなに時間がかかっても最後まで負い、しかし主張すべきはあくまでも主張する、そんな姿勢を黙々と、徹底的に冷静に続けてゆくしかないようにも思える。
***NYは今現在9月11日午前4時。言わずもがな、ツイン・タワー爆撃からもう5時間足らずで5年になる。あの朝目前で起こった現実は、9年間いろいろなことを経験しながらこの街に住み続けた自分にとって、あまりにも唐突で残忍で空しいものだった。そして時間が経過し、街から徐々に崩壊の粉塵が風に流され、爆撃の傷跡が秋空の下に露わになるにつれ、心の中には行き場のない深い怒りがこみ上げてきたのも事実だ。
先日、日本の新聞に9・11テロで家族を失った人々のグループ「ピースフル・トゥモローズ」に関する記事が出ていた。愛する家族を失った彼等の悲しみの深さは、到底俺には理解出来ない。しかし「自分たちや亡くなった家族の名のもとに戦争をしないで。」という、押し潰されるほどの重みと説得力のある彼等の言葉の前には、なんとかしてこの怒りを静めなければならないという気持ちになる。9・11テロを機に、反戦と平和を願うコンサートや募金活動を続ける非常に多くの人々が日本にもいるらしい。「ピースフル・トゥモローズ」の方たちからのメッセージのもとに地球の裏側で反戦と平和を歌うのは結構だが、一つ是非認識しておいてほしいのは、「ピースフル・トゥモローズ」の人々の悲しみの深さが我々第三者には到底理解出来ないのと同様に、俺やNYCに住む俺の友達の心にこみ上げたあの深い怒りも、恐らく当事者以外には理解できないものなのだ、ということだ。怒りを抑えるのはそう簡単なことではない。
アメリカは相変わらず自分が一番正しいと信じ、「自由のため」には戦争しかないと信じて星条旗をひきちぎれんばかりに振り回しているし、一部の過激派は相変わらず「聖なる戦い」と叫んで全く罪のない人々の命を道連れに自爆攻撃を繰り返している。誰が何をどれだけ信じようと俺には知ったこっちゃない、誰も邪魔はしないから、せいぜい思う存分祈りでも捧げて、 自分が世界で一番正しいと信じていればいい。でも自分の信じていることを自分を正当化する為の道具に使い、何の罪もない人々を苦しめることだけはやめて欲しい。押し付けがましいにも程がある。
写真1
アパート屋上から。
写真中央左の教会(尖塔の屋根)と右側のラジオ塔(鉄骨塔)の向こうに
左右いっぱいに広がるビル郡がマンハッタン。
ラジオ塔のさらに右、写真右端にはエンパイア・ステイト・ビルが見える。
そして教会の左側の、より大きなビルが密集するあたりがウォール街などのあるローワー・マンハッタンで、
この真ん中にかつては2本の高いビル、ワールド・トレード・センターがそびえ立っていた。
写真2
テロ当時に住んでいたイーストヴィレッジに程近い消防署から届いた、
献金に対するお礼のカード。写真の10人は当時ここの署員で、全員が9・11の殉職者。
写真3
爆撃が続くことを想定し、
水、懐中電灯、乾電池を買いにスーパーマーケットに走った。
そのときのレシート。
これを見ると今でもあの朝の空気の温度や湿度、
そして街の情景が鮮明にフラッシュ・バックする。
投稿者 hirosuzuki1 : 2006年09月12日 11:50
コメント
Hiroがこれを書いていたのはNY午前4時。コラムにアップしたのがJP11時50分。その前JP10時50分にHiroからメールをもらった。
世界は狭く、一つしかないことを再び認識した。
投稿者 og3 : 2006年09月12日 13:27