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2009年9月17日

1974年19歳の冬 決定的な『音楽人塩次さん』との出会い。

ハルさん写1.jpg
塩次さんのルナホールでの誘いを真に受けた僕達は早速、自分達の練習をテープに録音する作業にかかりました。当時は、カセットテープが出たてで、まだメンバーは持っていませんでした。大きなオーディオ用のオープンリール式のテープ録音でした。ボーカルに福嶋岩雄さん、ベースに池上さん、ギターガ私と船岡辰哉さん、ハープに山本さん、ドラムに辻さんというメンバーでした。
 緊張感が漂う中、難解も録音をやり直しました。その時の曲は、既にウエスト・ロード・ブルース・バンドを観て知っていた事で、演奏されている曲の元のレコードを集めに掛かっていたので、曲はマニアックなところをやっていました。
 BB Kingのケント時代のジャングルというアルバムから「ブルーシャドーズ・フォーリン」、ローエル・フルソンの「リコンシダー・ベイビー」、マディー・ウォーターズの「アイム・レディ」、ジュニアー・ウエルズの「スナッチ・イット・バック・イン・ホールド・イット」等を録音しました。
 数週間後、メンバーの中の池上さんと福嶋岩雄さんと僕との3人で京都北区の千本北大路付近にある塩次さんのアパートに行く事になりました。
 今の様に携帯電話も無く、メールで都合を聞いて合わせてお邪魔するようなことは到底しない時代であって、夜なら在宅されているだろうと突然訪問するのです。寒い冬の日でした。夜10時頃到着を目指して市電に乗り、大きなオープンデッキを抱え心臓をドキドキさせながらアパートに向かいました。
 とりあえず、塩次さん部屋はわかったのですが、お留守です。
 待つしか無いと!京都市内ではかなり北部地域のそのアパート、凄く寒かった記憶が残っています。
待つこと5時間、午前3時頃帰ってこられました。
また急に心臓が張り裂けそうになりました。「音源を持ってきました。聞いてください!」と言うのが精一杯でした。
 塩次さんは、優しく気さくに「大分待ったのか、まー入れや!」と、凄くうれしかったです。
 そのアパートは、学生アパート(塩次さんもまだ学生でした)で、玄関、トイレや炊事場は共同でした。当時はそういう学生アパートは普通の状況なのです。
 部屋に入ると物凄い数のLPレコードが壁際にラック無しで無造作に並べてあります。小さなテレビが置いてあり、アンテナは長いアンテナコードの先端を真中で切り裂き、部屋の左右に広げる方法でした。チャンネルによって角度を変え画鋲で止める方式で、一生懸命画面を見ながら調整されている姿が印象的でした。当時はやっと一家に1台テレビがあるという状況で、部屋にテレビが有るというだけで、十分贅沢だったのです。ベッドは、ビール瓶のビニール製ケースを数個並べその上に布団を敷くというベッドでした。そのベッドは、引っ越しをする可能性が高い学生には最適のものでした。
 口から心臓が出てしまうと思うくらいの緊張の中、録音した僕たちの演奏を聞いてもらいました。真剣な顔で音を聞いてもらった事を覚えています。
 聞き終わった後、シャッフルのリズムを教えてもらいながら、「バンドというのは、リズムが重要で、そのリズムがキチンと全員が把握して一体化していないとバンドサウンドは成り立たない」と、リズムの事など考えた事が無い僕たちに教えてくださいました。
 今から思えば、それがリズムとグルーブとの出会いであったと思います。「頑張れ!」と言ってもらったと記憶しています。
 その後、当時誰も知らなかった、アルバート・コリンズを聞かせてもらいました。まだソロアルバムは出てなくて、ブルースオムニバスレコードに収録されている中の一曲やったのです。その頃から塩次さんは、この人に目を付けていられたのです。凄い感性の持ち主やったのです。
 後は、インスタントラーメンを食べさせてもらって、凄く美味しかった事が印象に残っています。
 自宅から学校に通っている僕たちと違って、自立していて、しかも音楽の為に素晴らしく自由な生活をされている、大先輩という印象が深く脳裏に刷り込まれました。
 やる気満々になり、始発の市電で帰宅しました。
ハルさん写2.jpg

次回『塩次さんとの’88 Rock Day』に続く。

投稿者 haru : 21:50