***秋空とニューヨーク*** 大正生まれの父親は今から60年以上前、日本の軍隊の戦車乗りだったそうだ。終戦の時は台湾の砂浜で二つの穴を掘らされていたのだという。一つは燃料が底を突いて動かせなくなった戦車を半分埋めて砲台代わりに使用する為、もう一つは自分自身が首まで埋まって上陸してくる敵を迎え撃つ為。言ってみれば全滅覚悟の特攻作戦、父の言葉を引用するなら「犬死」作戦である。自分の穴を掘るとき、父は「これは俺の墓穴だ。」と自分に言い聞かせたそうだ。 母は終戦間近のある夜、下町の空が真っ赤に染まるのを東京目黒の学校の屋上から眺めていたそうだ。それが一晩で10万人以上の人々を焼き殺した東京大空襲だったと知るのは随分後になってからだったという。想像を絶する日常だ。平和な日本に生まれ育ち、事もあろうにアメリカ音楽のとりこになり、高じてアメリカに住むまでになったこの俺に取って、戦争とはあくまで現実からは遥かずっと遠くにあるもの、映画や写真の中の、まさに別世界の現象であり続ける筈だった。少なくとも2001年9月11日がやって来るまでは。 身の安全を伝えようと大急ぎで電話をした両親の反応は極めて印象的だった。「国や宗教で人間はここまでやっちゃうって事だよ。まぁ、こんなもんだって思っておいて丁度良い。それより、お前、ちゃんと仕事してんのか?」...「それが毎日毎晩続くんだよ、それが空襲だよ。ひどいもんでしょ。あんた、カノジョ出来たの?」... こんな時にこんな言葉を電話の向こうから飄々と言ってくる両親から、死と隣り合わせの日常を淡々と生き抜いてきた者にしか備わり得ないような、ある種の「凄み」の様なものを感じずにはいられなかった。両親の言うとおり、この惨状を出来るだけ早く「現実」として受け入れる為にも、とりあえずその第一歩としてスーパーマーケットに走り、懐中電灯、乾電池、ビスケットと、運べるだけのミネラルウォーターを長蛇の列に並んで購入した。ツインタワーに取り残されたボーイフレンドに泣きながら電話をする女性がいた。路上駐車したトラックからラジオ速報をフルアップのヴォリュームでかけっぱなしにして、険しい表情で黙々と仕事を続けるペンキ屋がいた。「何も解らないから、とにかく店に残って、あとは歩いて帰るよ。」と静かに微笑むデリの店員がいた。いつの間にか、電話が通じなくなり、テレビも映らなくなり、俺の心の中の、感情を表に出す「スイッチ」が、いつの間にか自動的にOFFになっていた。同時にその時に強く自問したのは、「俺に何が出来るんだろう?」という一点だった。 ご存知の通り、テロ直後は全ての交通網は閉鎖され、当然ながら他のあらゆる店舗同様、全てのブルース・クラブが閉店を余儀なくされた。ここに住む俺達は、言ってみればマンハッタンの中に閉じ込められた形となった訳なのだが、そういった厳しい交通規制も五日後位から少しづつ緩和され始め、一週間後あたりからはポツリポツリと営業を再開する店も出てきた。誰も客の入りなど期待してはいない、とにかくみんな今までの日常を一刻も早く取り返したい、そんな思いだったのだろう。俺も月曜のレギュラーの仕事に戻った。相変わらずビニールの焦げたような異臭の漂うヴィレッジ。当然の様に客はゼロ。店にいるのはバンドのメンバー三人とバーテンダー、ウエイトレス、ウエイターの計6人。 「ホントに演奏すんのかよ!?」などと思いつつも、黙々と演奏し、黙々と来客に備えていた。バンマスはエンディングと共に次の曲のイントロをスタートし、グルーヴが一つになり、店員達は薄暗いクラブの空間と音の間に漂うように仕事をこなした。しばらくすると、がらんとした客席を挟んでステージの向こう側に見える入り口の照明の下にぼんやりと二人の人影が。「あぁ、こんな時でも生演奏を聴きたい人っているんだな...。」などと思いながら、引き続き「音」という殻に隠れるように演奏を続けていると、その二人は客席のテーブルと椅子をかきわけて何故かためらうことなくステージに近づいて来た。その御二人はNYCで15年以上、作曲家、プロデューサー、ピアニスト、インストラクターとして常に第一線で大活躍するT氏と、彼の奥さんで歌手、声優として超多忙な日々を送られているYさんだった。 「ヒロさん...、まいった...、もう、どうしようもないよねぇ...。家から出たくなかったんだけど、でも早く元の生活に戻さなきゃって思ってさ、もしかしたら、ヒロさんだったらいつもみたいにここでギター弾いててくれるんじゃないかって、ウチの奥さんと話してて...、やっぱりプレーしてくれてたなぁ...、良かったぁ...。」 あれから三年、俺の周りの多くの事がゆっくりと、しかし確実に変わり続けている。多くのミュージシャン仲間がNYCを、そしてアメリカを去っていった。多くのライヴハウスが店をたたみ、ブルースファンのみならず、全てのライヴ音楽ファンに取ってNYCは「ドライ・シティー」に成り下がりつつある。あれ以来、この街の何かがOFFになったまま、人々はそれに気付かずに元の生活を再開させている。しかし同時に、言葉にならない違和感がいつも影の様に付きまとう。もしかすると、その影は俺が感じているよりも遥かにずっと巨大で暴力的で、深刻な存在なのかもしれない。 今年の七月の終わりに、ミシシッピ州南西部の小さな街、ヴィックスバーグで演奏した。茶色く濁ったヤズー川の水がミシシッピ川に合流し、限りなくゆっくりと、しかしそれでも永遠に止まることなく確実に右から左へ、北から南へと流れてゆく。真っ白な水鳥が泥に長い足を出し入れしながらゆっくりと歩き、川下から遡る貨物船のエンジン音が何故か妙に小さく聴こえる。桟橋の欄干に何気なく見つけた古い落書きを見た時、「夢は?」という問いに「一生自分をギタリストと呼び続ける事。」と答える若い頃の自分の姿がフラッシュバックした。 蛇足その1*** xxxxx × × × × 突然、私のアパートの中からでもそれが極めて低空で北から南へ飛ぶ非常に大型のジェット機であると認識できるごう音が聞えました。それが聞こえなくなったと思った瞬間、大きな爆発音、爆弾が爆発するというよりもっとソリッドな、「バン」といった破裂音が聞えました。 テレビをつけると、ツインタワーの片方が黒煙を上げている映像が映し出されていました。即座に私はこれはテロだ、と確信し、ミッドタウンの仕事先に向かう友人に「おそらく今日は自宅にいた方がいい。」と電話で伝えていると、テレビにはもう一方のタワーに激突する2機目の飛行機が映し出されました。 電話の後、直ぐに屋上に駆け上がると、私のアパートから南西側にあるツインタワーは真っ黒な煙を噴き上げていました。 「2機目の飛行機が激突するのを目撃した。旅客機のようだった」と6階の住人は言い、「大変なことが起こるぞ」。「戦争だな」「飲料水や非常食を買っておいたほうがいいんじゃないか」とほかの住人たちと話していました。 私は通りに出て、街がどんな状態か見てみたんですが、もう2機目が突っ込んだ直後あたりから全交通が遮断され、通りは徒歩で帰宅する人々でいっぱいでした。 「タワーに私の友人がいる。電話が通じない」と泣きながら歩き続ける女性。車のドアを開け、ラジオのボリュームを上げてそれに聞き入る工事作業員。固くつないだ手だけが彼らの気持ちを語るカップル。ファーストアベニューにあるイスラム教の集会場は固くドアを閉ざし、人々は意識的にか無意識にか、その存在すらをも認めないかのように通り過ぎる。 デリには水や牛乳やシリアルフードを買う長い行列ができ、クリーニング店のロシア人の主人は「ペンタゴンもやられたぞ。なあ、スズキ、どうすれば良いと思う?誰がやったかは皆わかってる。あいつらをぶっ殺すしかないだろ!」と拳を振り上げた。 空虚な街。その裏側にネガティブなエネルギーが少しづつ蓄積しはじめているようにも見え、と × × × × × × × × ***** 蛇足その2 下の写真は、ミネソタ州のドゥルースという街でフェスティヴァルに出演した際のものです。XOTIC XT HIRO MODELが写ってます。(写真をクリックすると大きくなります。) ヒロ鈴木はデボラ・コールマン(Deborah
Coleman)バンドのリズムギタリスト。 今までのコラムはこちら。
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