前にもここで触れたことだが、ライヴ音楽が放つエネルギーとは、ミュージシャンと音(楽曲)と観客の、3つの要素がライヴ・ハウスの中で化学反応を起こして生まれるようなものである。感動的なパフォーマンス、大きな「化学反応」が毎晩起こるわけではないのは承知の上だ。鳥肌の立つような猛烈な「うねり」を経験することはむしろ稀といっていいだろう。それでもライヴ音楽を愛する人々がより大きなエネルギーを共有するという期待を胸に今夜も集まってくる。そこでこれは俺の極めて個人的な経験談なのだが、いつになく大きな化学反応が起こり、観客が総立ちになり、演奏と共に我を忘れるほど熱くなる自分がステージの真っ只中にあるとき、客席の天井あたりからもう一人の自分(?)が、昂揚する自分を恐ろしくクールに見つめているに気付くことがある。バンドが強力なビートをはじき出し、観客の熱気と共に増幅されるグルーヴに見事に乗って、演奏者の「俺」が熱くなればなるほど、観客の「俺」が醒めて落ち着きながらじっと自分自身を見つめるのだ。その瞬間、どっちの「俺」に感覚や感情があるのかといえば、どちらにもあるのであって、かといってそれら二人(?)の「俺」がお互いを指差しあって、「てめーぇ、俺がホンモノのヒロ鈴木だぞ!」などと言い合いをするわけでもない。つまりこれは、例えば幽体離脱とかいうような超自然的な「現象」というよりも、むしろ説明するのが難しいとても不思議な「感覚」といった方がいい。これをミュージシャン仲間に話すと、似たような話を聞いたことがあるという。どうやらこれは俺だけのことではないらしく、他にもこれと同じような経験を持つアーティストは存在するらしい。 アメリカに住んでいると、よくパーティーに誘われる。実際に行ってみると、ホスト役の自宅が会場となり、会話を困難にするほどのヴォリュームでBGMが流され、実に多くの人々が飲み物や軽食を片手に、つぎつぎに相手を変えながら会話に花を咲かせている。自己紹介、そして他己(?)紹介の応酬をきっかけに横のつながりを広げながら盛り上がって行くわけだ。そして日本でいうところのパーティーと大きく異なる点は恐らく、ホスト役を介して集まってくる参加者が、お互い見ず知らず同士である場合が非常に多いことではないだろうか。時にはホスト役はおろか、それがどんなパーティーかも全く知らずに参加している者もいたり。これは単に、バーやクラブに一杯ひっかけに行く場合でも同じようなことが言える。大体こちらでは、友達と事前に約束して飲みに行くということはまずほとんどありえない。たまたま仕事で一緒だったメンバーの一人がたまたま帰り道が一緒で、たまたまお互いがその後に何も予定が入っていなくて、「かるく一杯、冷たいビールでもどうよ?」とたまたまどちらかが切り出して、ふらりと見ず知らずのバーに立ち寄り、次の電車まで他愛のない会話を楽しむ、ほとんどの場合がせいぜいその程度だ。またそんな感じでふらりと立ち寄ったバーで、時々大勢で盛り上がっている連中に出くわすこともあるが、蓋を開けてみれば彼等もやっぱりお互いが見ず知らず、たまたま隣に居合わせたもの同志が咲かせていた会話の花の輪がいつの間にか広がっていただけだったりする。仮に演奏の後、メンバー全員で別の店に繰り出したとしても、そこには既に「メンバー」という意識はなく、一人一人が思い思いの相手と話し、酒を注文し、気の向いたら宿へ帰る、それがごく普通の、当たり前の「認識」なのである。日本で見られるような、職場の同僚による「飲み会」や、バンドメンバーの「打ち上げ」とかは、アメリカではまず絶対といっていいほどありえない。 我々日本人にはなかなか理解しづらい、パーティーやバーやクラブで飲む時のこのようなざっくばらんな雰囲気を、ライヴハウスに来る人々にも同様に感じることが出来る。「さて、今週末は何処へくりだそうか?ちょっと生演奏でも行ってみようかな...。」こんな気軽さ、音楽を日常生活のすぐそばにいつも置いておく「普通さ」がある。もちろん観客ばかりではなく、当のライヴハウスも、平日の地元バンドの演奏等は入場無料だったり(かなりのビッグネームが演奏したとしても15ドルを超えることはごく稀。)、ビールを2〜3本注文すればいつまででも放っておいてくれたり、そんなふうに手軽にライヴ音楽を聴ける環境がアメリカには存在するわけだ。 一方、俺が過去三年間に東京で足を運んだライヴハウスを思い出してみると、そのほとんどが出演するバンドや曜日にかかわらず3000〜4000円の入場料、その他に「オーダリング・ミニマム」といったような設定に基づく料理や飲み物のチャージを観客に課していた。つまりライヴハウスに生演奏を観に行くという行為がゆうに1万円以上の出費を伴う行為という、我々一般にとってある種「スペシャル」な行為とみなされても致し方ない現状である。同時に出演バンドは、仮にそれがプロのバンドだとしても、「チケット・ノルマ」とか、「チャージ・バック」とかいわれる集客義務を店側から請求される。仮に渡されたノルマ分のチケットを完売したところでそれはあくまでプラスマイナスゼロの売り上げということで、結局は当日券でやってくる客の数でその日のギャラが決まるという、バンドにとっては非常に厳しい仕組みだ。またバンド側が前売りチケットを直接売りさばくというこのシステムによって、ライヴハウスに集まる客の大勢が「身内」で固められ、全体が「飲み会」モードのグルーヴに満たされてしまう結果を招いているケースが多く、ライヴハウスがプロの「仕事場」としてはずいぶん緊張感の希薄な環境になり、またミュージシャン同志がお互いを鋭く磨き上げてゆく絶好の場としてライヴハウスを利用する図々しさにもあまり出会えることがなかった。そして何よりも驚かされたのが、演奏者がバックライン(ライヴハウスが備え付けで持っている機材)を使用する時、なんと店がレンタル料をバンドに請求するシステムだ。ドラム1万円、キーボード7千円、ベースアンプ5千円、といった具合である。東京の交通事情を考えた時、ミュージシャンにとってバックラインとはまさに「渡りに船」であるのに、ここでもさらにバンドは厳しい条件を背負わされることになるのだ。東京の住宅事情や物価を考えれば店側も生き残りをかけて四苦八苦しているのは言うまでもない。しかしなにもミュージシャンにシワヨセしなくてもいいじゃないか、と思うのだ。東京のライヴ・ミュージック・シーンはここまでプロ・ミュージシャンの育ちづらい場所になってしまったのかと、とても残念な気分にさせられた。 昨年の秋、都内のある小さなバーで演奏した。翌日は宇都宮のクラブでの演奏がブックされていたのだが、宇都宮での演奏で一緒するドラマーが、そのバーの近くに住んでいて、しかも店の常連客であることが偶然わかった。するとバーの店長が「ヒロ、彼は明日車で宇都宮に行くって言ってたから、乗っけて行ってもらえよ。」と俺に薦め始めた。今から電話してやるから、と。新宿から宇都宮まで新幹線ならわずか20分、ギター一本持って行くだけのギグで荷物も多くないし、宿も確保できている。俺が「大丈夫、ダイジョブ、電車で行くから。」と断ると、すかさず店長が「いいから乗っけてもらえって、良い人だぞ。」とさらに薦める。それでも俺が断ると、半ば呆れ顔で「なーんだ、オマエ、昔と変わらないなぁ、アメリカに10年も住んでるのに相変わらず日本人だな。気を遣うなよ!」と言うのだ。この店長の言葉は日本人とアメリカ人の「個」の認識の違いを表していると思う。この店長に限らず、日本人の多くが「日本人=まじめで遠慮深い=気配りが細かい」、「アメリカ人=自由でフレンドリー=気を遣わない」とステレオタイプに思い込みすぎて、勘違いをしている傾向が時々あるようだ。「個」を「内」と「外」に分けて考えると、アメリカ人は確かに「内」に他者が入り込むのを嫌うが、同時に他者の「内」に踏み入ることも嫌う。仮に他者の「内」にやむを得ず入り込んだり、いつになく接近しなければならない場合は、その他者から前もって明確な許可を取ろうとする。つまり他者との距離に常に敏感なのだ。お互いの間に明確な距離を置けて、あくまでもお互いの「外」で接していると認識できる時、初めて自由でフレンドリーなパーソナリティーが顔を覗かせる。ましてや、その必要すらない状況において、他者、それも見ず知らずの「個」との距離を敢えて縮めようとすることなどは絶対にありえない。アメリカ人は元々非常に「内向き」で「気を遣う」国民性なのだと思う。 そんな警戒心の強いパーソナリティー、主張の強い「個」が複数、ステージという一箇所に集まり、お互いを乗り越えた上で「化学反応」を起こそうと試みるわけである。当然、時にはとんでもない反応が起こり、目も当てられない有様に堕ちいる時もあるが、どう転ぼうと結果は全て火付け役、猛獣使い役であるバンマスが百も承知で受け入れ、メンバー達は何事もなかったかのように自分のペースを崩そうとはしない。ステージを降りた後のメンバー同志の「日本的」な友達付合いはまずないといってよい。そして、もう言わずもがな、「化学反応」がポジティヴな火花をちらしたとき、それは感動的で官能的なグルーヴとなり、その夜にそこに居合わせた全ての人々を熱狂させ、感動させるというわけだ。 旧いミュージシャン仲間から依頼があり、今夜はギターといくつかのペダルを背負い、午後7時に自宅を出て、地下鉄でマンハッタン42丁目のBBキング・クラブNYのルシール・ラウンジで午後8時から午前1時までの演奏をし、午前2時に帰宅、着替えをして顔を洗い、歯を磨き、ビールを開けてソファーにゆっくり腰を下ろした今の時刻が午前3時。テレビをつけると、ヤンキーズ・アンコール(今夜のヤンキーズのゲームの再放送)が放送されている。対戦相手はシアトル・マリナーズ。俺は子供の時から野球が好きで、毎年必ず一回は田舎の茨城から母親に連れられて後楽園球場に巨人戦を観に行ったし、東京に住んでいる二十代にはよく神宮球場にヤクル メジャーリーグの野球に目が慣れてしまうと、残念ながら日本のプロ野球が(日本の)高校野球に見えてしまう。技術面やパワー面で日米を比較してしまったら身も蓋もない。そもそもスポーツ人口が極端に違いすぎるし、カリフォルニア州とほぼ同一面積の国の中で12球団ものチームがコンピートしているのが日本のプロ野球なわけだから。それよりもむしろ、プレーヤー一人一人の動きやしぐさが似かよい過ぎていて、躍動感に乏しく、突拍子のない「ハプニング」が少ないのがその「高校野球」っぽい一因だと思う。それに、なぜだかはわからないが、試合があまりにもホームランに左右されすぎで、試合そのものが妙に軽薄に見える時が多い。やはり野球は二塁打と三塁打、そして強肩のデフェンスである。そこで、これは俺のろくでもない勝手な提案だが、この際、高校野球(中学野球も)を思いっきり盛り下げて、逆にリトルリーグと大学野球、そして職業人野球に大きくスポットをあててみてはどうだろうか。つまり、夢、基礎体力、個性という才能の芽をむやみに消耗させることなく温存して、プロで大きく開花させるのである。さらにプロ野球で使われているボールをメジャーリーグ規格球と同一にし、全ての野球場をメジャーリーグ並みに広くして、足の遅い奴や肩の弱い奴の生き残れないプロ野球にするべきだと思うのだが... ギグでクタクタになるまでギターを弾いて、午前様で帰宅しアルコールが入ってヤンキース戦に興奮し、その上文章などを書こうなんて、ろくなもんじゃない。案の定、訳のわからない文章を今月もガタガタ書いてしまった。 最後に断っておくが、俺はけっしてアメリカの「個人主義」的なやり方が日本の「和を以って尊し」的なやり方よりも優れてるといっているのではない。アメリカに住み、アメリカの音楽シーンで飯を食い、何度「テメー、勝手なことばっかり言ってんじゃねー、この馬鹿アメリカ人!」と衝突をしてきたことか。新曲は練習しない、リハーサルはドタキャン、時間に遅れる、約束は守らない。結局、この国の「音楽リレーションシップ」の全ては「見返り=金銭」で買うものなのである。「とりあえずいくら払えるのか教えろ。どれくらいやるかはその額でこっちが勝手に決めてやる。」と。それに比べ、日本のミュージシャン達の音楽への情熱は素晴らしい。「とりあえず音を出そう。他の事は後にしようや。」と、約束の時間までに出来ることを全て準備していて待っていてくれる。音楽の話から離れてもっと社会的な角度から見てみても、今、世界の中でアメリカという国がどういう存在になっているかという事実からも解ると思うが、肥大化ゆえに自己を相対的に見つめることさえ出来なくなってしまったこの国の未来、そしてこの国の大勢を占めていると言わざるを得ない超内向きで田舎臭い考え方は非常に危険で、とてもじゃないがそれに賛同することはできない。しかし、こと音楽、特にライヴ・ミュージックのマジック、より強烈な「化学反応」を思った時、アメリカのダイナミズム溢れる強烈な「個」をどうしても無視することが出来ない。ステージの上では、自意識過剰、自信過剰、自分勝手が音を立ててぶつ 蛇足1 蛇足2 続・続・ヒロ鈴木ギターコレクション
ヒロ鈴木はデボラ・コールマン(Deborah
Coleman)バンドのリズムギタリスト。 今までのコラムはこちら。
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