第8回:音楽と演奏


昨年、一昨年と、二年連続で秋に日本に帰っている。
その短い滞在中に積極的にライヴ音楽を聴くよう努め, セッションに参加し、時にはアマチュア・ミュージシャン達のジャム・セッションにも足を運んだ。今年の2月にヴァケーションで訪れたフランスのパリでも、ガイド・ブックを片手に地下鉄を乗り継ぎ、カルチェ・ラタンにあるブルース・クラブでのジャム・セッションを楽しんだのを思い出す。ジャム・セッションはその土地の音楽ファンがどんな角度からブルースを感じているのかを浮き彫りにしてくれるので面白い。

NYをはじめとしたアメリカ国内でのアマチュア・ジャム・セッションを覗くと、どこでも目に付く共通のキャラクターに出会うことが出来る。
「俺こそ最高のミュージシャンだ!ありがたく聴け!」と満面の自信と共に肩で風を切ってクラブにやって来る奴らの事だ。そんな個性的なキャラが多い。では肝心の実力の方は...、といえば、周囲の予想を裏切る(?)ことは少なく、彼らの絶大なる自信とは完璧に反比例する結果に終わる事がほとんどなのだが、しかしそれでも彼らなりのやり方でブルースに接し、そうしていられる自分をどれだけ愛しているかが観ている方にもひしひしと伝わり、はたから見ていてもとても嬉しくなってしまう。

それに比べて日本のプレーヤー達は非常に研究熱心である。むしろ「音学」と漢字をふった方がふさわしい位、理路整然と聴き、とても上手に楽器を演奏する。非常に音楽を聴いているし、楽器演奏の練習にも熱心に取り組んでいる。これは、大きな自信を持つに値する素晴らしい事だと思うのだが、実際にジャムに行って双方の演奏を聴き比べてみると、アメリカのジャムは人間臭くて面白いが、日本のジャムは一人一人のキャラが見えず、つまらない。「たかがアマチュア・ジャムではないか。」という向きもおありだろうが、これは結構、日本の音楽傾向を映し出しているようで見逃せない違いだ。

又昨年の帰国では、アマチュアだけではなく、プロ・ミュージシャン同志のジャムもいくつか経験し、そのうちの一つでは見逃せない発見があった。その時参加したセットは錚々たるメンバーで、始まる前から俺のテンションは最高潮に達していたのだが、いざ演奏が始まってみてはっきりと感じた事は、曲がスタートした途端に全員が一目散にエンデイングを目指してしまっている、という事だった。次の瞬間に起こるかもしれないハプニングを逃すまいと睨みをきかす鋭い視線も、ソロで何かを起こしてやろうという危険な匂いも、「俺の演奏を聴け!」といったあくどさも、他のプレーヤーを煽ってやろうとする茶目っ気もなく、「ちゃんと曲を終わらせよう。」というただ一点に神経を集中し、黙々と担当楽器を弾き続ける、といった状態に終始保たれたままだったのだ。

プロ、アマを問わず、日本のジャムはミュージシャン同志の音でのぶつかりあいはおろか、音での会話すらなく非常に無機的に思えてならなかった。テクニック的に言えば、日本のミュージシャンの平均レベルはアメリカやヨーロッパのそれよりも間違いなく高い。ただ、それらのテクニックを使って一体何をどういう風に表現したいのかが、聴いていても一緒にプレーしていても、なかなかこちら側に伝わってこないのは確かだ。

飯守泰次郎というクラッシック指揮者が日本人オーケストラを前にこんなことを言ったそうだ...「皆さん、もっと私の指揮棒に抵抗して下さい。」。これは非常に鋭い指摘だと思う。お稽古事の延長としての音楽と感性表現の一手段としての音楽を明確に区別するべきなのだと。

かつてマンハッタンに住み、ジョン・パリスやボ・ディドリーのレギュラーとして大活躍し、現在は日本でチャーとツアーしているドラマーの嶋田ヨシタカ氏は、「とんがった奴がいない。」と嘆いていた。音楽をやる上で毒にも薬にもならない「良い人」になって何が面白いのか、と。

ミュージシャンは「タイト」という言葉をよく使う。一人一人の丸裸の感性が一つの音楽の中で時には激しくぶつかりあい、火花を散らし、時には甘く溶け合い、美しい花を咲かせ、それらの極めて人間臭いプロセスを経るうちに演奏に独特のうねりが生まれ、本当の意味で一つになりタイトなグルーヴに成長する。別な言葉を用いるなら、それこそ「ファンキー」という言葉がぴったりである。そんな人間臭いプロセスを回避してただワン・ツー・スリー・フォーとはじめたところで、心を揺さぶるグルーヴなど生まれる訳が無い。オリジナルをやろうと、マディー・ウォーターズをやろうと、ビートルズをやろうと、モーツァルトをやろうと、そんなのは手段の選択に過ぎない。メンバー一人一人の人間臭さがにじみ出る様なグルーヴこそが目的であって、手段と目的とを履き違えていては、いつまでたっても新しいものは生まれず、新しいものを貪欲に探す鋭い感性も育たないと思う。

掘り下げてゆけば、これはもう音楽の話から大きく離れてしまい、国民性や文化論、歴史の話にまで脱線してしまいそうだ。以前、このコラムで「日本にはライヴ音楽は根付きづらいのではないか。」と言ったことがあるが、行き着くところは結局、聴く立場にあっても演奏する立場にあっても、「ライヴ音楽」の本当の面白さを楽しむには、日本人の「個」はまだまだ脆弱すぎるのではないか、という結論である。

待ちに待ったXotic XT-HIRO Model が完成し、PCIのM氏から俺の手元に届いた。マホガニー・バック、メイプル・トップのボディーにディ・タッチャブル・マホガニー・ネック、ローズ指板で、H/S/Hのピックアップコンビネーション。先日のスペインでのフェスティヴァルではコンディションの良いアンプに恵まれなかった事もあり、充分に「実力」を発揮することが出来なかったが、いつも引き合いに出す事だが、アンプを通さずに弾いた時の生音が非常に艶っぽく、このギターそのものの個性を象徴している様だ。相変わらずバランスの良いギターで、ネックを含めたギター全体から音が出ている。俺に言わせれば、アンプを通さずに弾いた時の生音が良いギターは、相性の良いピックアップさえあれば必ず良い音がする。そしてアンプからのサウンドをクリーンに保ったままで自由自在にヴォリュームコントロール出来れば、どんなに歪ませてもサウンド・コアを失うことはない。問題はピックアップ。マウントされてきたピックアップは若干パワーが強めで、これからいくつか違ったピックアップのコンビネーションを試してみて、どこまでこのギターが「頼れる一本」に完成できるか、今からが楽しみである。

次回はXT-HIRO Modelを製作してもらうことになった長いいきさつあたりを話してみたいと思う。

蛇足
RCブースター、絶好調!。ハムバッカーとの相性が良い。音の粒一つ一つをはっきり残したまま潰しすぎることなく図太い音を創ることが出来る。さらにこのRCブースターに関してM氏にいくつかのリクエストをしたところ、今年の秋口には何か新しいアイデアを送ってくれるそうで、俺は今からそれを楽しみにしており、XT-HIRO Modelのベストピックアップを大急ぎで見つけなければ、と思っている。

ヒロ鈴木はデボラ・コールマン(Deborah Coleman)バンドのリズムギタリスト。
デボラ・コールマンのサイトは↓
http://www.deborahcoleman.com/index.htm

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