それにつけても今年のニューヨークの夏は暑い。恐らく俺がこっちに移って以来、一番の猛暑ではないだろうか?より暑い日は以前にも何日か経験しているとは思うが、今年は90度(摂氏でいうと大体31度)以上の日がもう3週間近く続き、なによりもこの多湿にはほとほとうんざりする。例年だと蒸し暑い日がせいぜい1〜2週間あって、そのあとは気温が高くてもさらりとした晩夏が訪れ、いつの間にか秋の気配が街全体を覆ってゆくものなのだが、今年は8月も中頃だというのに相変わらず湿度が高く、やむを得ずエアコンに頼り続けて毎日をぺターっと送りしのいでいる現状だ。先月のコラムで少し触れたネヴァダ州リノでは、6月の終わりで気温が90度、湿度がなんと10%、非常に爽やかで、外で飲むビールがめっぽう美味かった。翌朝のフライトでニューヨークに帰ってみると、気温はリノとまったく同じ90度に対し、湿度が80%で、空港を出た途端に、なんだか生温いゼリーの中に飛び込んだ気分。おかげで毎晩あまりよく眠れず、少々体調を崩し、夏にめっぽう弱い「ヒロスズキ」がタオルを頭に巻き扇風機の前に座り、ビールを飲みながら「松井、このヤロー!、ここで男になってみろ!暑いぞ、バカヤロォ!!!」と、今夜もテレビのヤンキース戦に向かってガタガタと叫び続けているのは哀愁が漂っていてあまり感心しない。(どうも今年は日本人メジャーリーガー達が苦戦している。イチロー選手も松井選手も3割維持に必死だし、なんと野茂投手がタンパ・ベイを解雇され、やっとのところでヤンキースの3Aと契約したという。野茂投手にはなんとかヤンキースタジアムのマウンドにもう一度、ピンストライプのユニフォームで登り、是非一勝をもぎとってほしい。そんな中でセントルイス・カージナルスの田口選手が連夜の大活躍である。二年前、セントルイスを訪れた時、多くの人々から「タグチを知っているか?!」と声をかけられた。「彼は素晴らしいプレーヤーだ。セントルイスにはタグチが必要なんだよ。」と野球を心から愛する街の人々は数年間地道にベンチに控える彼を当時から絶賛していた。野球もバンドもチームプレー、メンバー一人一人を大切にするチームには底力があり、素晴らしい選手が生まれ、そして素晴らしいファンが集まるものなのだろう。) これは確か去年、大統領選のための共和党大会がニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで開かれる直前の出来事だ。武装警官や州兵が街中のいたるところで警戒態勢を取る中、俺はクイーンズの北側を東西に走る地下鉄7番電車の先頭車両に乗り、マンハッタンへと向かっていた。イースト・リヴァーの下を貫きマンハッタンとクイーンズを結ぶトンネルに近づくにつれ、列車は各駅で普段よりも長い停車時間を取りはじめ、それは5分、10分と、目に見えて長くなってゆく。授業を早く終えた学生達がヘッドフォンで音楽を聴き、チャイナタウンから買い物帰りのおばちゃん達は大きな買い物袋を抱え、観光客と見受けられる男性は興味津々といった面持ちで車窓からの風景をしきりにビデオに収めている、いつもと何も変わらない、どこにでもあるNY地下鉄の風景ではあったのだが、その長い停車時間はいやでもその厳戒態勢の緊張感を強く伝え始めていた。我々利用客はこれも全てセキュリティーのためと割り切り、気長に構え思い思いに時間をやり過ごしている、そんなさなか、マンハッタンに乗り入れる地下鉄の約半分が停車するクイーンズ最後の主要駅の一つ、クイーンズ・ボロに停車した時のことだ。今までにまして長い停車時間が、もう15分を超えようかという頃、一人の警察官が俺の座席のすぐわきの乗車口からそーっと乗車してくると、俺に「ビデオを撮影している奴は誰だ?」と耳打ちした。正直なところ、この警官からの問いに答えるべきかどうか、一瞬躊躇したのだが、拒否するわけにもゆかないので、渋々その観光客風の男性を指差した。するとその警官はいきなり男の腕をつかみ、車両から引きずりおろし、「景色を撮っていただけだ!」と必死で説明する男の両腕を後ろ手に手錠をかけ、問答無用で逮捕連行していったのだ。重要な交通拠点である大型のトンネルや橋はテロの標的になりやすい。ましてや要人達が集まる、こんなピリピリとした厳戒態勢の中で、マンハッタン中心部に向かう地下鉄がトンネルをくぐろうという様子を長々とビデオカメラに収めている奴がいるとあっては、警察が黙っているわけがない、というわけだ。あっけに取られている我々乗客を尻目に、まるでその逮捕劇が終るのを待っていたかのように列車は静かにドアを閉め、マンハッタンへのトンネルに吸い込まれていった。 2001年9月の同時多発テロ以来、ニューヨークに住む俺達の心の中には、何が今起きても不思議ではない、というようなある種のあきらめにも似た認識が息づいている。マシンガンを持った州兵や特殊警察官がすぐ隣に立っていてももはや何の違和感も感じなくなってしまった。昨年3月11日のマドリッドに続き、今年7月の初め、今度はロンドンがテロの標的になり、またここでも武器を持たない、ただただ日常を黙々と生きる多くの「普通の人々」が無造作に殺されてしまった。それにしても、なぜここまで殺し合い、傷つけあうのだろう?100年、いや70年でいい、歴史を遡ってみれば、人間は同じ愚行を馬鹿みたいにグルグル繰り返しているのがわかる。自分勝手な信念や信仰を持つのはかまわない。しかしそれらを武器や暴力を振りかざすこじつけのような言い訳に使うことだけはやめてほしい。悲しくつらい思いをするのは、いつも俺達一般市民、「普通の人々」だ。もういい加減にしてくれ、と言いたいし、世界各国の首脳達は果 先月の終わりにミシシッピ州南岸にあるビロキシという街でおこなわれたBBキングの80歳誕生日コンサートにデボラ・コールマンのリズムギターとして出演した。BB本人の他、ボビー・ブルー・ブランド、ドクター・ジョン、ケニー・ウェイン・シェパード、ディッキーベッツ、ジョディー・ウィリアムズ、スモーキン・ジョー・ウィリアムズというメンバーで、「BBキング、80歳バースデー・ベネフィット」と銘打たれていた。「ベネフィット」とあるのは、BBの生まれ故郷であるこのミシシッピ州に新しいブルース博物館を建設するというプロジェクトに、このショーで集められた売り上げの一部を役立てるためなのだという。コンサートの直前、ホテルのレストランで昼食を取っていると、一人の老婦人から、今夜のショーで演奏するのか、BBと話す機会があるのか、と声をかけられた。前座としてデボラ・コールマンとスモーキン・ジョー・ウィリアムズのバック・アップをするだけで、恐らくBBと話すチャンスはないだろうと答えると、そのご婦人は昔、BBが働いていた所と同じミシシッピのプランテーションで働いていたのだそうで、出来ればBBと話をしてみたい、きっと私を思い出してくれるだろう、というのだ。 その瞬間、俺の中で古い写真と古いブルースの中だけに存在していた現実の「ブルース」が、俺のほうに音を立てて近づいてきたような気がした。あのBBの暖かい歌声とこのご婦人の暖かい笑顔の後ろには、彼等の重く悲しい歴史が確実に存在しているのだ。蒸し暑く重い空気が素肌にねっとりとはりつく気候、お世辞にも質が良いとはいいがたい水、ニューオリンズにつながるという、雑草の生い茂った貨物列車のトレイン・トラック。ブルースの生まれ故郷の小さな踏み切りに立って、ほんの少しの間耳を澄ましてみると、そこには今でもブルースが、「ウーン」、とうなり声をあげているのが聴こえる。 このコンサートで何よりも印象に残ったのはBB本人とボビー・ブランドの歌だ。「いまさら何を。」という感じだが、この二人の歌の暖かさ、色っぽさ、艶っぽさにはつくづく感動した。その素晴らしさは、この二人の持って生まれた才能によるのはもちろんだが、同時に彼等の生きた「時代」もけっして無視することの出来ない大きな要素の一つだと思える。そう考えると、彼等のような歌手の誕生をこの先に期待するのは無理があることなのかもしれない。そしてもう一つ、このコンサートで忘れられないのがディッキー・ベッツだ。俺が今までどれだけ彼の音楽を聴き、多くを学んできたか、今夜同じステージに立てることが俺にとってどんなに光栄なことか、そしてさらに約7年前のクリスマスに、日本人でひしめくマンハッタンのとある日系書店の中でなぜか彼を見つけ、声をかけて「こんな所に俺を知っている奴がいるとは!」と驚かれたことを、ショーが始まる前にどうしても直接伝えたくて、恐る恐る彼の楽屋を訪れた。非常に気難しい性格だと聞いているし、楽屋口で本人に「なんか用か?」とにらまれたときはさすがに膝がガクガク震えたが、伝えたいことをひと息に言い切ると、「おおっ、そうだったのか。7年前のことは憶えていないけど、まあ、入ってなんか飲むか?」と二コリともせずしかし暖かく迎え入れてくれた。楽器の話やBBキングの話に花を咲かせ、お互いの出番も差し迫っていたし、ビールをひとくちふたくちいただいて失礼しようとすると、「演奏が終ってもしばらくいるから、後でゆっくり話そう。」と言いながら肩を一度バン!と叩いて出口まで見送ってくれた。 ディッキーは楽器さえ持たずにビロキシにやってきて、ボビー・ブランドのバンドをバックにオールマン時代の名曲「サウス・バウンド」と「ランブリン・マン」の二曲を、レンタルしたフェンダー・テレをマーシャルにつないでリラックスしたムードでプレーした。それでもアンプから飛び出してくるのは正真正銘のディッキー・ベッツ・トーンなのだから恐れ入る。カラリとしながらも野太いトーンが時にはのびのびと、時には繊細な模様を織りなすように、次から次へと飛び出してゆく。ここで面白かったのは、これらカントリー8ビートへの、ボビー・ブランド・バンドの解釈の仕方だった。ディッキーの生み出すグルーヴにバンド、特にリズムセクションがなかなかリンクしない。これはブルースのシーンにいると度々遭遇する光景で、ロックやカントリーのフィールドに近きを置くブルース・プレーヤーと、ジャズやオールドスタイルのスイング、R&Bに近きを置くブルース・プレーヤーとがセッション等でたまたま一緒にプレーするような場合、両者ではバック・ビート、特に8ビートの感じ方がまったく違い、グルーヴがひとつにまとまらずミュージシャン同士がステージ上で右往左往するという、そんなハプニングの好例といえるだろう。もちろん、ディッキー・ベッツ本人もボビー・ブランド・バンドのメンバーも、これもお互いの個性が交錯することで生まれるちょっとしたリズムの「よれ」であることは百も承知であるから、それを逆に大ヴェテランの余裕で見事に楽しんでしまっているようだった。(ちなみに俺がこの「よれ」を初めて体験したのは、ニューヨークに来て間もなく、あるロカビリー・バンドのスイング・シャッフルを聴いたときだ。一言でいうなら、まるで8ビートとシャッフルの中間の、「スイングの意味はわかっているのだがどうしても体が8ビートに反応している。」、とでもいっているような、非常にイナタく粘りのあるグルーヴで、これはアメリカではよく見かけるが、日本ではまず経験することのできない土着の「乗り」の一つだ。) 演奏後、ディッキーと俺はアーティスト・ラウンジで再び話した。「チャンスがあれば...」と思い、このコンサートにカメラを持って来ていたのだが、彼は俺の手の中のカメラを見るや否や、「ちょっと待ってろ!」とわざわざ自分の楽屋に戻り、ステージで着用していたヴェストを着てラウンジに戻り、「よし、撮ろう!」と自ら進んでツーショットに応じてくれたのだ。別れ際にはディッキーは俺に「ボン!」とボディー・ブローを一発決め、“Hang in there ! Stand straight !” と残し、コロシアムを去っていった。「俺のショーを観に来た時は必ず声をかけるんだぞ、わかったか!」と、やはり二コリともせずに付け加えながら...。 「ギター初心者で、そろそろギターソロのコピーを始めたいのだが、音をひろいやすくしかも実戦で使えるお勧めのソロはないだろうか?」という質問をよくいただく。そんな時、俺は一切ためらわず「ディッキー・ベッツのソロ、特にオールマン初期のブルースソロを聴け!!!」と答える。具体的に挙げるなら、オールマン・ブラザーズ・バンドのアルバム「ライヴ・フィルモア・イースト」の「ステイツ・ボロ・ブルース」、「ダン・サムバディ・ロング」、そしてアルバム「イート・ア・ピーチ」の「ワン・ウェイ・アウト」、「トラブル・ノー・モア」と、これら一般的にはオールマンズのもう一人の天才ギタリスト、デュエイン・オールマンの伝説の驚異的スライド・ソロで超有名なテイクばかりだ。これらのテイクの中でデュエインの影に隠れる存在になっているディッキーのソロはしかし、リズム的にもメロディー的にもどれも極めて明確でわかりやすく、しかもブルース・ギターのエッセンス的フレーズを多く盛り込みながら、非常に注意深くシンプルかつ丁寧に組み立てられているのがわかる。かくいう俺も、今でもしょっちゅうこれらのソロを聴きなおして、シンプルで的を得た「良い」ソロがいかに楽曲全体を引き締め緊張感とドライヴ感を生み出すかを再認識させてもらっている。(2005年8月13日) 蛇足***
ヒロ鈴木はデボラ・コールマン(Deborah
Coleman)バンドのリズムギタリスト。 今までのコラムはこちら。
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