第17回:フィラデルフィア・オン・マイ・マインド

今から5〜6年位前、俺はあるフィラデルフィアのバンドに所属していた。かなり忙しいバンドで、少なくとも週2回はマンハッタンのポートオーソリティーからグレーハウンド・バスを使いフィラデルフィアにでかけ、主にフィリー市内やペンシルバニア東部のクラブやフェスティヴァルなどで演奏していた。あのフィリー・サウンドの生まれ故郷フィリー市内には、この街がアメリカ中で一番ホットなミュージック・シティーだった頃の名残が今でもとても面白い形で残っている。無数の古ぼけたミュージシャンのサイン入り写真が、店内の壁一面に貼られた大きな魚屋にバンマスが連れて行ってくれた時は何がどうしてこうなっているのかが全くわからなかった。単純な話、ライヴミュージックの衰退と共にクラブが魚屋に転職したというだけの話だったのだが、かつて三大キング、マディー・ウォーターズやレイ・チャールズを始めとした、レジェンド達が毎晩のように全国各地からやってきては満員のオーディエンスを熱狂させたこのスペースで、今は大きな前掛けと長靴をはいた男たちが直筆サイン入り写真に囲まれながら魚をさばいている。時間の流れとは、時に現実をなんとも奇妙な形に風化させるものだと、不思議な気分にさせられたのを思い出す。 

その魚屋の前でバンマスが真っ赤な帽子と真っ赤なハイヒールに真っ赤なスーツ、そして肩にはゴールドのスパンコールのちりばめられた黒いスカーフを巻いた、身長が190cmはありそうな年の頃で50代後半の巨大な黒人女性に声をかけられた。でかい。ハイヒールのサイズは30cmはありそうで、かかとの方から見ればそれはまるで二つの真っ赤な漏斗(じょうご)が地面に突き刺さっているようである。そして凄まじい厚化粧なのだ。粉っぽい。バンマスが彼女に俺を紹介すると、彼女は「ハ〜イ、ヒ〜ロ〜!!!ホットママよ〜ん!」と重低音の声とともに俺をきつくハグした。まるでボボ・ブラジルのさば折りにかかる星野貫太郎だ。一瞬、俺の膝が笑った。後になってバンマスが話してくれたことなのだが、彼女は当時、その最もホットな時代のフィラデルフィアにやってきた有名ミュージシャンで、彼女と寝なかった者はいないと言われたほどの超売れっ子娼婦で(現役を引退したのかどうかは恐ろしくて聞けなかった。)、30年たった今でもド派手な衣装とメイクアップにかける手をけっして緩めることなく、自他共に「ホットママ」と呼び街を我が物顔で闊歩する、ちょっとした名物姐さんなのだそうだ。フィラデルフィアに行った時、街角で超ド派手な服装にスーパー厚化粧の大きな女性を見かけたら、それがホットママなのかもしれない。

三月の第四週末はそのフィラデルフィアにある、ウォーム・ダディというクラブでの二晩の演奏があった。店のドアをくぐるや否や、「おおっ、ヒロじゃねーか?!」と店員の一人に声をかけられたのは嬉しかった。ここでプレーするのは5年ぶりで、まさか俺を覚えていてくれる店員などもういないだろうと思っていたからだ。フィラデルフィアの東に流れるデラウエア川に沿って走るフロント・ストリートという道に面し、街で最もにぎやかな通りの一つでもあるマーケット・ストリートの角という、おしゃれなお店も数多いシックなエリアにあるこの店は、食事も悪くないし、店員達がとてもナイスだ。フィラデルフィアに出かける時には市内観光の締めくくりに是非立ち寄りたい。ライヴ演奏もブルース主体のメジャー・アーティストがブックされている

デボラ・コールマンとの俺自身の演奏ももちろん良い感じだったのは言うまでもない。ここでは自分のアンプを使用したために、集中して使用したのがACブースター。このACブースターの二つのトーンコントロールが俺の仕事を本当に楽にしてくれる。Xotic Hiro Modelにマウントされたハム・バッキング・ピックアップとの相性が素晴らしい。

その翌日、俺は滞在を延長し、初めて観光地としてこの街を散策した。結果を先に言ってしまえば、とても内容の濃い観光だった。一見よそものに無愛想で冷たそうなフィリーの人々は、一度話を始めるととても親切で暖かく、どこでも気軽に会話に花を咲かせることができる。そしてこれは全く予想しなかったことなのだが、ここは食事が美味しい(また食い物の話だ!)街だったのだ。今回の三泊四日の滞在ではシーフードを堪能した。市の中心から東側にある「オールドシティー」と呼ばれる、ニューヨークで言えばさしずめソーホーのようなエリアで食べた生牡蠣やカニがとても上等で、しかも値段もとてもリーズナブルなのに驚かされた。

言うまでもなく、ここはアメリカ合衆国発祥の地であり、この国の全ての輝かしい歴史の始まりを物語る無数の史跡が市内に点在し、また博物館や美術館も豊富で、観光スポットめぐりや散策には全く事欠かない場所である。しかし同時に、それらの史跡一つ一つが物語るストーリーの裏側には、けして無視してはならない、人間の持つ「ダークサイド」の歴史があせることなく刻まれていることを見過ごすわけにはゆかない。市内にアフリカン・アメリカン・ミュージアムがあり、アフリカン・アメリカン・アーティスト達のアート作品の他、多くの歴史資料が展示されている。そこを訪れ、奴隷制度というこの国の持つ最も大きな「負」の歴史資料を見たデボラが、「若い世代がこれらの事実を知らずに大人になることは恐ろしい。」とつぶやいた。アフリカン・アメリカンとアメリカ合衆国との歴史と、ジャパニーズ・アメリカンとアメリカ合衆国との歴史を同列に置いて語るのは大きな無理があることは承知の上だが、実は俺はこのデボラの気持ちをどうしても他人事とは片付けられない思い出がある。

一昨年12月の中頃に、4日間、仕事でコロラドに滞在した。移動のための一日を含めて、ギグの二日とレコーディングの一日、宿泊地は4日ともデンバー市内。滞在したデンバーで一番印象的だったのが、クアーズフィールド球場の近くに位置する“Sakura Square”と呼ばれる一角だった。俺自身、このデンバー滞在の4日間がこの約三週間のツアー最終地で、相当日本食に飢えていたこともおおいに手伝い、サクラスクエア内のビル(確か、20階建位の、大きなビル)の一階、二階にあったいくつかの日本食レストランと日本食材を扱う大きなスーパーマーケットを目指して行ってみたのだが、実際にサクラスクエアに入ってみると、そのビルの3階以上がレジデンシャルビルになっており、住む方々のほとんどが年配(それもかなりの御高齢)の日系アメリカ人の方達ばかり。不思議にも若い方をまったくといっていいほど見かけなかったので、入ったレストランの店員に、「ここは一体どういう場所なんでしょう?」と聞くと、そこは太平洋戦争終結後、強制収容所からの開放後も絶えずあびせられる差別や虐待に苦しむ日系人達に、その当時アメリカ全土で唯一デンバー市長だけが彼らの安住を約束し、提供してくれたのが、後にサクラスクエアと呼ばれるこの一ブロックで、現在ここに住むほとんどの日系人の方達が日系二世及び日系三世である、ということだったのだ。

10年以上アメリカに住んでいながら、このサクラ・スクエアの存在をまったく知らなかったことがとても不思議でならなかった。自分でも理由はわからないのだが、「へーぇ、知らなかった。」と、軽く受け流す気持ちにはとてもなれず、複雑な思いでしばらくそのスクエア内にあるベンチに座っていた。もし現在の日本人の大半が、それまでの俺のようにこのサクラス・クエアの存在を知らないでいるとしたら、それはとても不幸で冷たいことに思えてならないのだ。そこに住む全ての日系人の方達が、現在は幸せにすごされていることを祈らずにいられないし、もし我々日本人が彼らに対して何かしなければいけないことがあるというなら、それはいますぐに始められるべきだと思えてならない。

ここではあえて触れずにおくが、このサクラスクエアの他にも、歴史の流れの中の大きな渦巻きに突然飲み込まれ、人権蹂躙(じゅうりん)とも言い切れる状態で翻弄された末、日本から遠く離れたアメリカの片田舎に静かに暮らす数名の日系人の方達に出会ってきた。俺と話す時も彼等は極力日本語を話すことを避け、また日本の話題にも触れようとはされなかった。彼等はよく笑い、純日本的な上品で優しい方達ばかりで、周囲からもとても慕われている。日本からこんなに離れた、だだっ広い土地の真ん中で偶然にも彼等に出会えたことを俺は一生忘れないし、これからも事あるごとに彼等のような日本人の存在を出来るだけ周囲に語り続けてゆきたいと強く思う。

最近、俺の生活の中にずいぶんと新しい「機材」が入り込んで来て、毎日ウハウハ言いながら楽しんでいる。まず、デジタルのマルチ・チャンネル・レコーダーを手に入れた。これは驚くほどリーズナブルな値段なのに、とんでもなく便利なシロモノだ!アナログの4チャンネル・カセットテープ・レコーダーとギャーギャー言いながら格闘してきた今までの苦労がウソのようである。とにかくそれぞれ録音された楽器ののトーンが格段にクリアーで、頭の中に思い描いたアイデアを形にすることが容易なのが嬉しいし、それに何よりも曲を製作しているプロセスにおいて集中力を損なずにわれることがなくなったことが最大のメリットだ。さらに最近、俺は生まれて初めてヘッドフォンというものに高額をはたいたのだが、ヘッドフォンの質がここまで俺の仕事を助けてくれるものだとは思ってもみなかった。質の悪いヘッドフォンを使っての長時間の録音作業がいかに体力を消耗するものかが、身をもって体験できる。

オーディオ機材からはもう一つ。長年探し求めていたレコードの針がやっと見つかり、ずいぶん長い間ホコリまみれになっていたプレーヤーで超久しぶりにLPレコードを聴くことができた。俺には理由が全くわからないのだが、アナログ・レコードだといつまででも音楽を聴いてしまう。音を止める気がしないのだ。「えーっと、次は何を聞こうかな...。」と、幸せな気分だ。それに比べるとCDの場合、二、三十分もすると「ちょっとヴォリュームを下げようかな...。」とか、「もういいや...。」と中断したいと感じてしまう事がひどく多い。因みに今はまっているレコードは二枚組みのライヴ・アルバム「ワッツ・タックス」と、エリック・クラプトンの「マネー・アンド・シガレッツ」。ダック・ダンのベースが気持ち良くてやめられない。
2005年3月30日

蛇足***
...そして最近手に入れた機材の中でも驚きの一品がデジカメ。俺の友人が突然、「新しいのを買ったから、あげるよ。」と送ってくれたのだ。これは便利だ。早速何枚か撮ったのでここにも掲載してみる。

 


まずは俺のアパートのすぐお隣の庭の木にやってきていたカージナル。初めてこの鳥をアメリカで見た時、あまり赤が美しいので大きな昆虫か何かかと思ってしまった。

 


次は昨年の帰国の際に手に入れた1990年製のグレッチ6120ナッシュビル。俺自身のギグや地元NYでのセッションに大活躍している。このギターは隠れた名器、いろんなシチュエーションに使える。今まで多くのヴィンテージ・グレッチを楽器店などで試奏したがそのほとんどが「仕事で使える」状態には程遠く、グレッチを買うなら最近のものを、と考えていた。噂ではこのグレッチのボディーは、現在世界で最も上等のアーチトップ・ホロウ・ボディーを製作する、某日本メーカー製らしい。どうりで素晴らしいわけだ!

 


このレス・ポールは、なんと今年始めに誕生日のプレゼントとしてデボラ・コールマンが贈ってくれたギブソン・レスポール・クラッシック。製造年は不明。入手後すぐにヴォリューム、トーンの各ポット、ピックアップ・セレクター・スイッチ、テール・ピース、各ピックアップのエスカッションと、ナットを交換。しばらくこのまま使ってみて、しっくり来ないようならピックアップの交換とワイアリングされているケーブルの交換を考えている。現行のレスポールと比べるとボディーがかなり軽く、アンプを通さないで弾いた時のトーンがとてもリッチで、恐らく良い具合に乾燥しているのだと思う。相性の良いピックアップさえ見つかれば間違いなく「使える」ギターだ。因みに俺の誕生日は10月3日、デボラ・コールマンと一緒。真偽の程は定かではないが、デボラは常日頃から、「スティーヴィー・レイヴォーンもアルバート・コリンズも、ケヴ・モも10月3日生まれだ!」と豪語している。

 


最後のギターは泣く子も笑うエキゾティック・テレ。ボディー材はアルダーかアッシュかどちらかは不明だが、多分これはアルダーじゃないだろうか。二年前に二本のギターを含む機材のほとんどをごっそり盗まれた時に、PCIの三浦さんが「足しにして。」とわざわざ演奏していたロスのクラブまで持って来てくれた「友情のギター」。レコーディング、ライヴ・セッション、そしてブルース、ロック、ソウルと、どんなシチュエイションでも完璧にフィットするギター。フロント・ピックアップの暖かいトーンといい、リアの図太くエッジの効いたトーンといい、俺が今までに手にしてきたベーシック・テレの中で最も上等なテレ・キャスターだ。

ヒロ鈴木はデボラ・コールマン(Deborah Coleman)バンドのリズムギタリスト。
デボラ・コールマンのサイトは↓
http://www.deborahcoleman.com/index.htm

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