2007年11月23日
第2回 アメリカといっても広い
さて、僕はこっちにいるせいで日本からアメリカへ来て音楽をやりたいと考える人から時々色々な問い合わせが来るんですが、漠然とロス・アンゼルスかニューヨークへ行けばいいと考える人が多いような気がします。
結果論としては上記の二都市が最適な場合も多いですが、安易にそう考えずアメリカのどの都市をベースにし、どう活動を展開するか、ということは一考の価値があります。 アメリカと一口に言っても広いですし、地方差もかなりありますから。
まず第一に考慮しなければならないのは、その町にある音楽のスタイル。 これは確立されてしまうと人が出入りしてもなかなか変わらないですから、町とその音楽の関係というものはほぼイメージ通りであることが多いです。 例えば僕が今いるテキサス州オースティンはカントリーとブルースの町。 また、テキサスというのはメキシコのすぐ北にありますからかの地の影響が強く、ラテン系なども非常に受けます。 ナシュビルはカントリー、ブルーグラスの本家。 ニューオーリンズはジャズ。 ロスはハードロック。 ニューヨークは何でもありますが比較的実験的な音楽でも許容してくれるという印象を受けます。 またシカゴもブルースは盛んでしょうし、メンフィスはソウル、シアトルはモダン・ロックといった具合です。 これはどういうことかというと、その町では上記の音楽は確実に「うける」わけでそのジャンルでやっているミュージシャン達の需要も多く、客入りもいいということです。 オースティンのも例えばヘビメタやっている人はいますけど、そういう音楽をやらせてくれるクラブ、また観に来る客も非常に少ないので、メタルでの活動を展開するにはオースティンは居心地の悪いところだと言わざるをえません。
また音楽のジャンル以外にも町ごとによっては音楽や業界の文化が全く違います。 先日Hさんという日本人がオースティンに遊びに来たときご案内したことがありますが、Hさんはブルースが大好きでこれまでにもロスやシカゴなど行ってきたそうです。 帰る頃にはオースティンのシーンがすっかりお気に入りになったようで、音楽のジャンルといい演奏の質といいこれまで訪ねたどの街よりもいいと言っていました。 また、オースティンは著名なライブ・ハウスが比較的近辺に集まっていることが多く、歩いていく距離でないにしても町の反対側にドライブするというようなことでもなく、一晩に幾つもライブ・ハウスを渡り歩くことが簡単にできるとも言っていました。
別の例をあげると、僕はオースティンに来る前はミネソタ州、ミネアポリスの近くに住んでいましたが、あそこは寒いところなので上記のようにClub Hoppingするわけにはなかなかいかないので、お客さんも目当てのバンドがギグしているところへ行ったらそこへ一晩中居座ることが多く、また雪などにより交通にも予想以上に時間がかかることもあり早めに会場につく努力もします。 ということは、大物アーティストの前座をやるということは駆け出しのアーティスト達にとっては都合がよく、自分のファン以外の人も観客にすることができます。 逆にオースティンでは上記のようにクラブが比較的密集していることに加え、天気などの障害もないですし、またラテン・アメリカの文化の影響も来いので時間より遅くくる人も多く、前座という立場もそれほど有利ではありません。 たいていお目当てのアーティストが演奏し始めたあと観客が入ってきて、終わるとすぐ出てしまう。 アーティスト一組一組がほとんど独自に客を集めなければなりません。
さらに、ライブ・ミュージックが盛んという評判のためオースティンには膨大な数のミュージシャンが集まってきていて、クラブの方でもアーティストに何もお金を払わなくてもいくらでも代わりがいるのでミュージシャンがライブではほとんど収入が得られないというのもオースティンの特徴の一つです。 他でも状況はシビアですけど、オースティンほど厳しいのはロス、ニューヨークくらいです。 ただオースティンは上記の二大都市と比べると生活費が格段に安いのでその辺は有利です。
というわけで、当たり前のことのようですが、アメリカ進出する前には色々と下調べをしておくといいということです。 自分の音楽のスタイル、経済状況などを考慮にいれどの町のどの辺に拠点をおくかと探索するのは非常に重要なことです。 もちろんこちらに来てみないと見えない現実というのはどうしてもあると思いますが、経済的にそれが難しいんであれば例えばMySpaceで当地のバンドを探し出してコンタクトしてみるとか、そういうやり方もありだと思います。 海外進出というのは大きなステップですから、最初から理想的な環境にはいけないにしてもある程度目安としてどの町が自分に合っていそうだ、くらいの認識を持ってからくると後の活動もよりスムースになるといえます。
かくいう自分も年末にここ10年住んでいたテキサス州を離れ、北国のミネソタ州へ戻ることになりました。 ミネアポリス近辺に住む予定です。 日本でいうとだいたい長崎から仙台か札幌へ移るというようなのに似たような感覚になりますでしょうか。 どちらも地方都市ですが、豊かな文化のある面白い町です。
引っ越す理由としては幾つかありますが、やはり最大なのはかの地が妻の出身地に近く、親戚も近くにみんないるということ。 子供が2人いますが、毎年あちらへ里帰りして日本へも行ってと家族回りだけで膨大な時間と資金を使っていますのでこれはどちらか片方の近くへ住んだ方が効率がいいということになりました。 妻の母が頻繁に来て孫の相手をしてくれるので僕の方も少し荷が軽くなり、より音楽に費やせる時間を増やせるだろうと考えています。
オースティンはミネアポリスと比べるとはるかに音楽が盛んですが、上記の通りブルース、カントリー、ラテン、フォークとどれも比較的(いい意味で)泥臭い音楽が主体です。 ここに来てから自分もそういう音楽から多いに学びましたし、またここのインディー映画業界からも色々機会を見いだしましたが、やはり最終的には自分のやりたい音楽はちょっとここで主流なのとは性質が違うという結論に達したのです。 オースティンで活躍中のロックバンドはいっぱいいますが、しかしどれもちょっと流れに逆らっているというか、上記のもっとルーツ系の音楽だとすんなり受け入れられるような感覚があります。 ミネアポリスはその点もっと普通のロックがあり、まあどちらかというと都会的でなくてもっと大らかなタイプの音ですが、Semisonic, Soul Asylum, Jayhawks, the Replacements, Husker Du, Sugar, そして大御所Princeの出身地(今でも住んでいます)として知られているなど、必ずしも大ヒットとはいかないまでも通好みのロックアーティストを生み出しています。 Bob Dylanがもともとミネソタ州出身でありますし。
とにかく町の音楽の文化が自分にピッタリかということが最重要なんではなくて、その許容力の中に自分の音楽も入れそうだ、というそういう感覚ですね。 この点でミネアポリスがどうなるか行ってみないとわかりませんが、今年は自分もアルバムを出してアーティストとしてのキャリアをスタートしたわけですし、気分転換もかねて新天地で新しい生活を始めると、何か今まで思いもしなかった色々な可能性が見えてくるんではないかと期待しております。
たった一人の日本人、それも所帯持ちでライブもろくにやれない人間がアーティストのキャリアなんて大げさな話をしていると思われそうですが、見果てぬ夢を追い求めているとはいえ全く勝算のない賭けに人生を費やしているわけでもありません。 次回は少しビジネスプランというか、いったいどういう戦略で僕が「活動」と呼べることをしていくのか、その辺の話をしたいと思います。
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投稿者 ari : 07:51
2007年11月 6日
第1回 これまでの人生
PCIの読者の皆様、どうも初めまして。
現在テキサス州オースティン在住のミュージシャン、Ari Koinumaと申します。 本名は小井沼有嗣(こいぬま ありつぐ)といいますが、こちらでは前述の名前で通っていますので日本語でもアリさん、アリ君と呼ばれることが多いです。 僕はメインの楽器がギターなので、PCIのコラムは数年前に発見して以来、トモ藤田さん、ヒロ鈴木さんなどを中心にずっと愛読させて頂いていたんですが、僕もアーティストとしての活動を始めたらコラム書きたいな、とずっとこの日を夢見てきました。 この機会を与えて下さった PCIと堀場さんにこの場を借りて感謝いたします。
このコラムではアメリカでも地方都市に拠点を置く一人の日本人が、主に宅録とインターネットでを基盤にアーティストとしての活動を展開していく過程をお話したいと思います。 その道中、アメリカと日本の文化の観察やこちらのインディー業界の戦略、果ては音楽業界の未来の考慮と色々話が展開すると思います。 日本でより海外生活の方がながい人間ですのでこの場を通して他の日本人の方々と交流を深められたら、と願っております。 何か質問やコメントがありましたらオフィシャルブログやマイスペースなどを通してお気軽にどうぞ。
さて、ここまでの自分の経歴を説明するところから始めましょう。 元々は東京生まれ。10歳の時にピアノを始めましたが、12歳の時に父の転勤でブラジル、サンパウロに。 地元の日本人学校で中学生をやっていたときに友人からボンジョヴィやヨーロッパといった当時のハードロックを聴かされ、深く感化されました。 16歳の時にギターを手にし、翌年には身の程知らずにもアメリカに行ってロックをやりたい、という願いを持ちました。 15歳の時から英語のインターナショナルスクールに行っていたので英語の方は身に付いてきていましたし、日本に帰って大学を受験するのはまっぴらごめん、という気持ちもありました。 その年、学校の休みの間を利用してアメリカ中西部、アイオワ州の田舎のサマーキャンプに三週間参加してきたのですがそこでも現地に多いに愛着を持ちました。 大学は実はバークリー音楽院なども考慮したのですが、普通の大学をまず出るべきという父の意見に従い、総合大学に進むことに。 色々紆余曲折をへてミネソタ州、ミネアポリスの南45分ほどのところにあるセントオラフ大学(St. Olaf College)へ入学しました。 ここはクラシック音楽でその地方では著名な私立大学だったんですが、演奏楽器がロックギターだった僕はもちろんそれは学業に用いるわけにいかず、主に作曲を勉強しました。 その間、夜は学生仲間とカバーバンドをやって、それなりに楽しいときを過ごしました。 ほぼ全寮制の学校だったんですが、2700人ほどの年頃の若者をこの長い冬のある田舎へ閉じ込めておくと、やはりそれなりのことがおきるわけで、僕も在学中にアメリカ人の女性との出会いがあり、卒業後結婚しました。
一年後二人で新たな可能性を求めてテキサス州オースティンへ移りました。 オースティンは日本での知名度は決して高くありません。 ダラス、ヒューストン、サンアントニオというアメリカでも有数の巨大都市に囲まれているので地味な印象がありますが、これまた全国でもトップクラスの巨大大学、テキサス州立大学があり、また"Live Music Capital of the World"という呼び名があることからもわかるように、音楽の非常に盛んな町です。 ブルースの巨人スティーヴィー·レイ·ヴォーンが頭角を表した地として知られています(町に彼の銅像があります)し、その他にジャニス·ジョプリン、ジョニー·ウィンターなどの老舗、また最近ではVallejoやSpoon、 Trail of Deadといったインディーロックの先鋭たちを生み出しているシーンです。 ニューヨークやロスでなくここを選んだのは気候が暖かいし音楽も盛んだけで町も大きすぎず、生活費も比較的安いという点からでした。
着いてすぐにバンド活動を始めましたが、参加したバンドが数ヶ月のリハと十数曲のオリジナル曲に労力を尽くした挙げ句、一回だけのギグで消滅。 バンドというものの当てのなさを実感した僕は次にシンガーソングライターとしてアコギを抱えてコーヒーハウスなどでギグをし始め、それを次第に発展させていってリズム隊を連れた3ピースまでいったんですが、これもまた崩壊し、疲れ果てた僕はしばらく自分の音楽をおいて他の活動に手を伸ばしました。 サポートギタリストとして活動を開始、他にも採譜の仕事やコンピューターを使って音楽を創ることを教えたり、2000年には映画作曲もやり始めました。 オースティンはインディーでの映画製作も盛んなのです。 2003年にはノートブックパソコンを使って宅録でのデモの録音のプロデュース兼エンジニアという活動も始めました。 その年末には長女が生まれましたが、職を転々としながら活動を続け、2005年にはちょっとしたピークを迎えます。
ここまで数編の短編映画とドキュメンタリーの音楽を手がけてきましたが、この年初めて長編映画の作曲をすることに。 映画製作というのは機材のデジタル化でコストダウンしてきたとはいえ、それでも長編を一本つくるのには膨大な資金と労力を必要としますから、長編に関わるというのはインディーのレベルでは大きなステップアップなのです。 さらに同時期、初めてフル·アルバムのプロデュースを手がける仕事にも出会い、八ヶ月に渡ってフルタイムでこの二つの大きな仕事を同時進行でこなすことになりました。 結果的に両方とも大成功で、この規模の作品としてはかなりの成果(映画の方は世界十数カ国でDVD配布、アルバムの方はインディー市場でそれなりにヒット)をあげたのですが、終わってすぐにまたそれと同等かそれ以上の仕事にありつくというわけにはいかず、その秋ウェブデザイナーとして就職しました。 フルタイムの会社員生活、子育ての上に音楽活動を継続するのは難しく、その上に2006年に二人目の子供が生まれるといよいよ他人のスケジュールで動く仕事をすることは難しくなりました。
この間僕がしてきたのは、音楽が好きだという漠然とした願いから、それを現実に糧として生きるのにはどうしたらいいのか、その方向性の模索でした。 実際音楽でパートタイムくらいの収入は出せるようになったとはいえ、あれを試してみては駄目になり、これも試してみては行き詰まりといったことの繰り返しです。 今になって振り返ると、ブラジルでの日本人として非常に情報の限られた狭い社会に育ち、挙げ句のはてに全く人づても経験もないアメリカ社会に身を投じたせいで自己発見と環境への順応にかなり時間がかかっているのかもしれないと思います。 気がついてみると自分ももう30代で、所帯持ちの会社員。 しかも長いことちゃんとした職や技術を持っていなかったせいで給料も安いわけです。 こんな中途半端な人間になってしまった自分に何ができるのだろうかと考え込みました。
過去数年、色々模索している中で浮かびあがってきたのは、自分には何でも割と器用にできるけれど、やっぱり今でも一番やりたいのは自分の好きなロックであり、自分が長年書きためて来た曲たちであるということでした。 僕は歌唱力も演奏技術もそれだけでは飛び抜けたものを持っていないんですが、自分の書いた曲だけはいいものがあるといつも信じていました。 自分が本当に勝負できるのは、技術、論理、作曲などを全て含めた総合力としての音楽を「創る」作業なんだと。
例えばプロデュース(日本でいうプロデューサーとは意味が違い、アレンジ、パフォーマンスコーチ、時にはエンジニアも一手にこなすレコーディングの総監督のこと)などは自分の持ち味を存分に発揮できる作業だと考えますが、最終的にやっているのは他の人が他の人のやりたい音楽をやる、その手伝いをするというサービス業であり、いいクライアントに出会い気に入ってもらうといういわゆる他人本意な活動です。 長年そうやって他の人に好きになってもらおうと(ミュージシャンにしても何をやるにしても基本的には他の人に受け入れてもらわなければいけないわけですから)努力してきたわけなんですが、もうここまできたら食べていくということにこだわらず、自分の好きなことをやりたいと思うようになりました。 プロの方たちだって自分本位の活動をしておられる方は本の一握りなわけですから、プロとして他人本意の音楽を創るか、アマチュアでも自分本位にやるかという選択に迫られたとき、ずっと前者だったのが後者になってきたわけです。 今まで様々な仕事をこなしてきた経験と技術を総動員して、自分で自分が納得できる音楽を創ったら、それを受け入れてくれる人がこの世界にはいるのだろうか、という賭けですね。 長年自分の頭の中でガンガン流れていた曲たちを今の自分にできる最高の形で世間へ放してやる。 年をとりすぎないうちにそういう挑戦をやらないと、後で悔いが残る。 そういう風に考えがまとまってきました。
そこで2006年夏、僕はついに大学時代から10年以上書きためていた曲を自分でレコーディングしてリリースする作業にとりかかりました。 これまた道中に色々あったんですが、今年の夏10曲入りのフル·アルバムが完成。 Aries9というプロジェクト名義で10月18日にリリースしました。 僕が好きでたまらないモダンロックで、90年代の影響を多大に受けながらも自分というはっきりいって珍しい人生を送って来た人間を反映した作品になりました。 非常に苦しんで創ったんですが、最終的には自分の持てる力を出し切り、しっかり自己表現できたのではと満足しています。 聴いて頂いた方々からの反応も好意的で、今後の活動の原点としては充分な役割を果たしてくれるのでは、という手応えを持っています。 MySpaceやAries9.comで試聴できますので是非皆さんも一聴されて、感想などお聞かせ下さい。
さて、念願のデビューアルバムもできあがり、レコーディング·アーティストとしてアメリカ業界へ踏み出す最初の一歩が始まります。 広大なアメリカの奥地(?)に一人いる日本人にいったい何ができるのか。 紆余曲折満載の珍道中になると思いますが、頑張ってここにその過程を綴ろうと思っています。 どうぞよろしくお願いいたします。
ギグ中の勇姿(?)
2007年夏、家族と。
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投稿者 ari : 12:34